「ようやく2人きりでゆっくり話が出来るようだね。邪魔がなくなるまで随分時間が掛かったけれど」
なつきの右手の状態など、気にもしていない様子で蔵馬は言う。
「‥‥そうね。でもあの子達は『邪魔』じゃないわ。邪魔にしていたのは貴方だけ」
なつきの返答に蔵馬の眉が釣りあがる。
「君のそう言う気の強い所も、わがままな所も意地っ張りな所も、聡明で自分の意見や考えをしっかり持ってる所も、オレはみんな大好きだよ。だけど、今回は、ちょっとばかりおいたが過ぎたんじゃない?」
蔵馬の言葉が終わると同時に、蔵馬の背後から幾本もの、今度は刺のない、人差し指程の太さの蔦が伸びた。その蔦は、蔵馬と3m弱ほどの距離を取って向き合っていたなつきの胴から腰に巻き付いて、彼女を拘束する。
「どういうつもりなの?」
流石に厳しい咎めるような声をだすなつき。
「せっかく2人きりになったのに、君に逃げられたりされるのはごめんだからね」
蔵馬の顔には凄絶と形容されるに相応しい笑顔が張り付いていた。
「今更逃げるとでも思ってるの?そんなに私が信用できないの?」
先程と同じ声でなつきは畳み掛ける。
「少なくとも今はあまり君を信用はできないよ。油断してたとは言え、オレにまんまと一杯食わせたそれはそれは賢い姫君だからね。君は」
今の君の状態だと、多分その蔦から自力で脱出できる可能性は、ゼロではないけど難しいでしょう?と楽しそうとも形容出来そうな声で蔵馬は付け加える。
「そうそう。不可抗力くらいはオレがどうにかしてあげるから」
つかつかと蔵馬はなつきの目の前まで近づくと、前触れもなく、右の腕を取った。
「防衛本能の強烈な魔界の蔦だからね。これ」
そもそも自分自身がその種を飛ばした身でありながら、いけしゃあしゃあと蔵馬は言って、その蔦に触れた。僅かに気を集中すると、蔦に注ぎ込む。瞬きする間の内になつきの肘下半分程度にギリギリと巻きついていた蔦が消えた。
「そんなのを受け止めたなんて大変だったでしょう。結構痛かったはずだけど、大丈夫?」
優しい声は、猫なで声と形容した方がいい様なそれ。だが、なつきの青白い肌と、それとコントラストをなしている、蔦がまきついていた部分に網目のように施されている紅い色の筋に対しては蔵馬は何の反応も示さない。
「魔界の植物(そんな危ないモノ)あの子達にけしかけるなんて。それも2回も。もう少しであの子達は死ぬところだったのよ」
明らかに怒気の含まれた声でなつきは蔵馬の猫なで声に返答する。その声と紡がれた言葉の内容に、蔵馬の目がすっと細くなった。しゅるりと先程なつきを拘束したのと同じ蔦が今度はなつきの喉に巻きついて、そのまま、きりきりと喉と頚動脈を締め上げる。
「‥‥っく‥‥あ‥‥」
なつきの呼吸が阻害されて、酸素と血液が、巻き付いた蔦で遮断される。苦痛に顔が歪み、ただでさえ青白かった顔色が、黒味がかった赤紫に染まった後、急速に雪のような白さに変わっていった。
「‥‥余計なおしゃべりは聞きたくないよ」
そう言って蔵馬は唇の端をあげて笑う。一瞬だけ、普段は夜空色か黒に近い深い紫紺の色に見える瞳が金色に光った。
「‥‥ぁ‥‥くぅっ‥‥」
先程拘束から解かれた右の手と、無事だった左の手を、首を締め上げる蔦と、自分の首との間に無理やりこじ入れて、なつきは辛うじて、締め落とされるのを防ぐ。
「まあ、そのままだと、オレの聞きたい事も聞けないし、余計な事喋るとどうなるかはこれで分かっただろうから、ほどいてあげるよ。首のはね」
顔をゆがめ、ぎりぎりの所で締め落とされるのを必死で防いでいるなつきの様子を楽しそうに見て蔵馬は言う。ほどいてあげるよ、と言う言葉が紡がれると、なつきの首に巻きついていた蔦だけがしゅるしゅると蔵馬の元へと引っ込む。ようやく酸素と血液の流れを確保して、なつきは苦しさから解放された反動で激しく咳き込んだ。こんな事されたのは初めてだ。強烈な皮肉や、冷たい氷点下の冷気と猛毒を併せ持ったような物言いはともかく、こんな風に実力行使と言うか、力ずくと言うか、とにかく『手を上げられた』事は。そういう事は基本的に『やらない』と『やるわけない』と思っていたのに。もしかして、いや、もしかしなくってもこの人は本気で怒ってるのかも知れない。怒っているのは、気分を力いっぱい害しているのは、蔵馬の存在を認識した時から分かっていた。だけど、ここまでのものだとは、正直ぜんぜん思っていなかった。今まで蔵馬から感じていた重圧感だとか、不機嫌なオーラだとかが、全く怖く無いと言えば嘘になるけど、少なくとも『恐怖』なんて形を持った『怖い』ではなかった。どちらかと言うと『ヤバイ』と言う形を持った『怖い』と言った方が適切だった。だけど、『本気で怒ってる』かも知れない、と認識した今となると、『怖い』の形は前者へと確実にシフトして。
「‥‥蔵馬‥‥」
ようやく呼吸を整えて、蔵馬の名前を呼ぶ。何を言っていいのか、なんと言ったら、蔵馬が許してくれるのか、それは分からないけれど、初めてかもしれない恐怖に、名前を呼ぶ事しか、出来ない。身体に一面鳥肌が立っているのは、けして冷たい水にずっと浸かっていて、身体が冷え切ってる為だけじゃない。蔵馬の様子に自分が怯えて、『恐怖』と言う感情を抱いているからこそ、こんなに自分の皮膚が粟立っているのだと言う事をなつきは嫌と言うほど自覚していた。
「少しは、オレが本当に心配して怒ってるって分かってくれた?」
なつきの顔に、今までは浮かぶ気配すらなかった怯えと恐怖の色を見て、少しだけ蔵馬の声の体温が上がる。こっくりと頷いた様子に、僅かだけ、ビスクドールに血がかよった。
「そう。だったら、もうこんな事は何があっても二度としないって、オレに約束できる?約束してくれるんだったら、まだオレもたくさん言いたい事があるけれど、もう、これでおしまいにしてあげるよ」
そう言って、蔵馬は自分の呼び出した蔓で痛々しく拘束された、青白い顔の少女を見た。いつもなら、自分の意志がはっきりと現れている勝ち気そうなその眼に、小動物の様な怯えの色が刷かれているのに、自分の言動がなつき自身に与えた影響を確認して、少し笑った。
「‥‥オレを本気で怒らすと、どんなに怖いかって事も、ちゃんと分かったみたいだし、ね」
彼女の左肩につかむように手をかけて、蔵馬はこの状況を楽しんでいるかのような口調で念を押した。
「もうこんな事はしませんって、言ってごらんよ」
『約束』を促す蔵馬になつきの目が伏せられた。考え込むように、迷うように何度も蔵馬の顔をちらりと見てはまた目を伏せ、何度も口を開きかけては止める。言葉を発するのをためらっているのかそれとも、恐怖に言葉が出ないのかどちらかなのかは分からない。
「もしかして、怖すぎて、口が上手く動いてくれないの?」
揶揄するような蔵馬の言葉。ようやく、反抗的な態度を取るのを止めた目の前の少女に、優越感に浸った視線を送る。
「‥‥‥ごめんなさい。私‥‥」
「ごめんなさい、そして、何?」
なつきの口からこぼれた『ごめんなさい』と言う言葉を蔵馬は楽しそうに聞いて、先を促した。
「ごめんなさい‥‥私、できない。貴方に黙っていた事と、嘘をついた事は、酷い事したと思うから、それは、本当に謝る。でも‥‥二度としないなんて約束は、できないわ」
『約束はできないわ』と言うなつきの言葉が紡がれ終わるかどうかの瞬間に、なつきの目の前が、白い閃光で包まれた。そして、その光と同時に、今までも感じていた、自分をぐさぐさと突き刺す様な蔵馬の妖気がよりいっそう強く大きく鋭くなったのを感じて、恐怖から、反射的にひっと小さな悲鳴が上がる。光のまぶしさと感じる恐怖に、思わずぎゅっと目を閉じた。
「‥‥なんて強情な娘だ」
いつもより高い位置から、怒気を隠そうともしないで降って来る声は、明らかに男性のものと分かる艶やかなバリトン。その声はいつもの、ちょっと中性的な響きすらある艶やかなテナーな蔵馬の声とは明らかに違う。
「‥‥‥」
恐る恐る目を開いたなつきの視界に飛び込んできたのは、怒りの表情を浮かべていても、それでも息を飲む程美しい銀色の妖狐。その妖狐は、蔵馬が先程までしていたのと全く同じ姿勢で、なつきの左肩を掴む様に手をかけていた。
「‥‥くら、ま?」
怯えの中に、幾分疑問符がついたなつきの声に、妖狐は冷たい怒気の含まれたバリトンで応じた。
「そうか、まともにこの姿を見るのは、もしかして初めてか?」
こっくりと頷かれて、妖狐は唇の端を跳ね上げて嗤(わら)う。
「初めて見るこの姿が、こんな状況だったなんて言うのも、結構不幸だな」
くつくつと喉の奥で、くぐもった嗤いを響かせて、妖狐はなつきを先程の蔵馬よりも、顔立ちの鋭さの分、更に凄みを増した目で見下ろした。
「なつき。お前が、オレと南野秀一の、数少ない『特別な存在』で本当に良かったな。そうでなかったら、今頃お前の命は亡くなっている所だ」
なつきの左肩を掴んでいた、蔵馬よりも確実に一回りは大きな手に、ぐっと力が入った。まるで、なつきの肩を握りつぶすかのように。蔵馬だった時の手には無い、鋭くて長い爪が肩に食い込んで、なつきの今は不健康な青白い色に変わっている肌を切り裂いて傷つける。肌の色とは対照的な鮮やかな赤い血が溢れて、切り裂かれたそこから指の数だけ筋を作りはじめた。
「っ痛ぅっ‥‥いたい‥‥、痛いよ、蔵馬、やめて‥‥」
弱々しい声。いつもなら、こんな風に哀願されたら、即座にやめているであろう行為は、止められる気配も無い。
「言っただろう?普通なら、お前は今生きちゃいないんだ。なのに命があるだけ、幸せだと思わないのか?」
絶対零度の凍った炎のような声。
「どうしたらイイ?どうお仕置きしたら、お前は素直にオレの言う事を聞くんだろうな?」
なつきの肩から手を離して、妖狐は言う。肩から手が離れたのと入れ違いに、なつきの胴と腰に巻き付いて彼女が逃げないように拘束していた蔦が、ギリギリとなつきの身体を締め上げると同時に、確実に頭二つ半は身長差のある妖狐の目線と目が合うように妖狐本人の身長よりも少し高い所まで彼女の身体を持ち上げた。新たな痛みに、なつきの顔が歪んで小さな悲鳴が上がる。
「お仕置きは何がいい?さっき召喚(よ)んだ魔界の蔦の群れにこのまま放り込んでやろうか?それとも‥‥」
一旦言葉を切ると、妖狐は楽しそうにすっと目を細めて、なつきの耳元に何かを囁く。なつきの青白かった顔が、真逆の赤い色に耳まで染まったかと思うと、今度は紙のように白く変わった。
「どれを選ぶなつき?他に希望があったら言ってみろ。ただし、お仕置きをやめるとか無しにするとか言う選択肢は、元々無いからそのつもりでよく考えるんだな」
凍った言葉の鞭がなつきを打ち据える。自分の身体を締め上げる蔦の痛みに苦痛の表情を押さえられないまま、なつきは、ようやく口を開いた。
「ごめん…なさい‥‥どんな目に、あっても、やっぱり、私‥‥」
言いかけた言葉は、顎を荒々しく掴んで噛み付くように重ねられた妖狐の唇に封じられる。元々苦しげだったなつきの顔が更に歪み、口の中一杯に金属臭と鉄の味が広がる。薄赤い液体がなつきの唇の端から溢れて、顎と顎を掴む妖狐の手を濡らした。
「余計なおしゃべりは聞きたくない、とさっきも言った筈だが、もう忘れたのか?」
唇を、鮮やかな鮮血で僅かに染めて妖狐はそう切りつける。ゆっくりと唇に付いた血と、手を濡らした、唾液で薄まった血の両方を舐め取った。当然、その血は妖狐のものではなく、なつきの流した物。唇を塞がれた時に、唇か舌か、どちらかを妖狐の歯で傷つけられ流れた、それ。
「‥‥私は、貴方の事が‥‥誰よりも好きで‥‥何よりも大事よ‥‥でも‥‥、でも、私は私、貴方は貴方。私は、貴方の好きなものは好きだし、貴方の考えや意見も正しいと思う。‥‥それでも、私は私だから‥‥貴方の全てと私の全ては‥‥同じなんかじゃ、ない」
締め上げられる痛みと苦痛に途切れがちになりながら、なつきは言葉を紡ぐ。
「なつき、これ以上余計な口を叩くな」
「違う!今言ってるのは、余計な事なんかじゃないっ‥‥!!」
はじめて。本当にはじめて、本気で怒っていた蔵馬と妖狐に怯えていたなつきが彼女本来の勝ち気さを取り戻したかのような口調で叫んだ。紙の様に白かった顔色に、かっと血が上って赤味が甦る。
「余計な事なんかじゃないっ!大事な事よ。とってもとっても大事な事よ!」
大きな声を上げた反動か、げほげほと咳き込んだ。
「‥‥だから‥‥‥ちゃんと…聞いてよ‥‥蔵馬‥‥!!」
咳き込みながら、それでも、意志の強さを失わないその言葉は、妖狐の触れた物全てを凍らせて粉々に砕いてしまう様な妖気と重圧を一点突破で貫いて、今までなつきの言う事に本当の意味で耳を貸すそぶりすら見せなかった妖狐を黙らせる。
「私は、貴方の可愛い彼女だけど、貴方の可愛い奴隷じゃない。貴方の可愛いお人形でもない。さっきの『約束』は、私を、貴方の『彼女』じゃなくって、貴方の『奴隷』か『お人形』にしてしまうって、コトに、どうして、貴方は気が付かないのっ?!」
苦痛に耐えながら、言葉を途切れさせないように紡いだおかげで、なつきは一度言葉を切って、また咳き込んだ。
「蔵馬は、私が、蔵馬の言う事、全部なんでも聞いて、何でもやって、いっつもにこにこ笑ってて、貴方のいう事を全部、笑って賛成してくれて、そんな私で楽しい?!自分の考えも意見も、何一つ持ってない『頭が空っぽの女の子』な私で楽しい?!そんな『空っぽの私』がいいの?本気で、本気でそう思ってるなら、そうだって言ってよ。言ってよ!‥‥貴方が本気でそう思ってるなら、貴方の『望み通りの女の子』になってあげるから。だけど、違うでしょう。そんな私は嫌でしょ?要らないでしょ?欲しくないでしょ?知ってるんだよ。そんな『なんにもない』女の子、蔵馬は欲しいなんて思わない事位」
ぜぇぜぇと荒い息をつき、途中で咳き込みながら、それでもなつきは喋るのをやめようとはしない。
「『奴隷』も『お人形』もそんなの蔵馬要らないでしょ?だから、『約束』なんかできない。私が私である為にも、貴方の『本当の望み通りの女の子』である為にも、そんな約束できない。貴方の心配は分かる。危ない事して欲しくないのも分かる。でも、それが私の『やらなきゃいけない事』だったら、私は貴方を心配させて、本当に悪いなって思うけど、でも、それでも私はやるし、それで、どんなに酷い目にあったって、しょうがないと思ってる」
「‥‥‥」
妖狐は何か言おうと口を開きかけたが、何か迷っているのか、それとも言葉が見付からなかったのか結局その口を閉じた。
「それに‥‥せっかく蔵馬が命がけで『穴』を塞いでくれたのに。それを無駄にする事なんか、私には、できないよ‥‥。だから、どんな無理したって、入魔洞窟(ここ)の『浄化』をしたかったの。あんなに、あんなに心も身体もボロボロになって、それでも、塞いでくれたのに、なのに、それが、また『無かった事』になっちゃうなんて、そんなの、そん、なの‥‥」
苦しい中で、それを振り払うように言葉を紡いできたなつきの目がふっと虚ろになったかと思うと、それまで必死に紡いできた言葉が唐突に途切れる。次の瞬間、くたりとなつきの全身から力が抜け、首ががっくりと折れて、まるで糸の切れた操り人形のように指一本たりとも動かなくなった。
「?!」
突然起こったなつきの変化に、妖狐は、はじめて怒りと冷たい氷のような表情以外の色を浮かべた。なつきに対して本気で怒り、腹を立てていたのは紛れも無い事実だが、自分も南野秀一も彼女の命まで取ろうなんて考えはこれっぽっちも無かったのだから。締め上げていた蔦の拘束を解いて、自由の身にすると、重力に従って、なつきの身体は地面、いや、受け止めようと伸ばした妖狐の腕の中に落下する。その腕の中に落ちた身体に通常の人間の物よりは明らかに低く、冷え切っているものの、まだ体温と言うものが残っている事と、弱々しげだが確かに規則正しい脈がある事を確認して、妖狐は胸を撫で下ろした。体内に吸い込んだ魔界の瘴気のせいで、元々めまいや立ちくらみを起こしやすい、貧血に近い状態になっていた所に、更に『儀式』を行い『術』をいくつか使った上、重傷とまでは行かないまでも、単なるかすり傷とは言えない傷を負って出血したのだ。血が不足気味の所に、頭にかっと血を上らす様な発言を長時間無理に行なった為に、急激に脳貧血か何かを起こして、意識を失ってしまったのだろう。
「‥‥全く‥‥なんて強情で馬鹿な娘だ‥‥」
呟いた妖狐の声には、先程までの冷酷な響きはもう、無かった。
「嘘でも、約束すると言っておけば、ここまで酷い目にあう事も無かったろうにな。後で幾らでも嘘だったと言う事は出来るのだから」
そこまで呟いた時、妖狐の身体がなつきを腕に抱いたまま白い光に包まれる。光が収まった時には同じ様になつきを腕の中に抱いたまま『南野秀一』の姿に戻った蔵馬がその場所には、いた。
「‥‥もっとも、馬鹿なのは、オレも同じだったみたいだけど」
意識を失ったなつきの顔を見ながら、自嘲的に呟く。
「こんな事しなくても、初めからちゃんと君の話を聞いてれば、分かったのにね。ここまで酷い事、本当はするつもりなんか無かったのに」
そう言って蔵馬はため息をついた。
「ちょっとお仕置きはするつもりだったけど、まさか、キレちゃうなんて思っても見なかったし。沈着冷静が聞いて呆れるね」
ゆっくりと地面に膝をついて座り、その膝の上になつきの身体を移す。自分のつけたなつきの腕と肩の傷に、召喚(よ)び出した大きな包帯代わりの葉を貼り付けて、とりあえずの血止めと応急処置をすると、学生服の上着を脱いで、冷え切った彼女の身体を包み、また腕の中にその身を移して抱き上げると同時に立ち上がる。
「ごめんね。なつき。帰ろう」
腕の中の、今だ意識を失ったままの少女にそう言うと、蔵馬は元来た道を戻る為に一つしかない広場の出入り口へとくるりと身体を向けた。 |