「ひつじが235匹、ひつじが236匹、ひつじが237匹‥‥」
今夜は何匹数えたら、眠る事が出来るのかしら‥‥‥。
ごろん、と今夜何度目になるか分からない寝返りをはうった。今日で何日目になるのか。羊の数を数える様になって――蔵馬が魔界(向こう)に行ってから。
魔界(向こう)はどんな所だろう?食事はちゃんとしてるのか、きちんと眠っているんだろうか。根を詰めると寝食を忘れる性質だったから、まともに人らしい生活をしてるのか、少々アヤシイものだ。怪我は?病気は?無事だと思っている。信じている。何事も無いと。無事で戻ると。絶対、絶対大丈夫だと。でもそれらの想いが強ければ強い程、それらは強固な反面、酷く脆いものになって。
眠りに落ちれば『最悪の事態』を夢に見てうなされた。毎日の食事もこんな風にきちんと食事をしてるのかと思いを馳せれば、とたんに砂を噛む様な味気ない物になって、箸が止まった。学校のチャペルは勿論、神道、仏教、ヒンドゥーetc.目に付いた『神様』には片っ端から愛する人の無事を祈った。なにかしたくても、してあげたくても、何も出来ない所にいる自分にとって、出来るのはそれ位だった。そんな自分に苛立ち、憔悴し、無力感を感じた。誰にも言えない想いと気持ちを持て余し、一人になると、訳もなく悲しくなり涙がこぼれてばかりいた。心労は身体も少しずつ蝕んで、やつれと目の下の隈と言う、目に見える形になって現れた。それを何も知らない周囲に隠す為に、隈を化粧で塗りこめ、ことさらに明るく振舞った。
信じてる。信じてる。信じてる。無事に帰ってくると。
「オレの代わりに、母さん達を頼む」だ、なんて、二度と帰って来ない様な言葉。これまでも、同じ意味の事は何度か言われたけれど、こんな、二度と帰ってこないとも取れる言葉で言われたのは初めてで。まさか死ぬつもりで‥‥‥?ううん、そんな事無い。絶対帰ってくる。帰ってきたら、一番に私の所に来てくれて、「ただいま。」って、ぎゅって抱きしめて。ただいまのキスをそっとそっとしてくれる。きっとそうだわ‥‥!
「ひつじが483匹、ひつじが484匹、ひつじが485匹‥‥」
涙がこぼれ落ちる。あとから、あとから。声を上げて泣くと誰かに気付かれるから、泣き声をあげるかわりに羊の数を数えて。羊の数が増えるのと、涙の量は正比例して。やがて、涙の海に沈んでいくように、はまどろみの淵にゆるゆると飲み込まれていった。
ここはどこ?どこかわかんない。真っ暗で、何も見えないみたい。あ、あそこに人‥‥蔵馬?誰かと、戦ってるの?助けに、行かないと‥‥え?身体が動かない?!どうして?なんで、なんで?‥‥やめて!蔵馬を傷つけないで!声まで、出ない?どうして?やめて!これ以上怪我したら、死んじゃう。いや!やめて―――!!
「?!」夢で上げた自分の悲鳴で目が覚めた。夢でも泣いていたらしく、の頬は涙の後がいく筋もついており、頬に触れると、濡れた感触が指に伝わった。
「今の夢?夢だよね。夢だよね?」
あまりのリアルさに、思わず自分で自分を抱きしめた。身体が小刻みに震えている。あんなのが現実になるなんて、絶対に信じたくない。自身を抱きしめたまま、大きく息を吸って、吐いて。また吸って、ようやく身体の震えが収まったその時だった。ベランダに、かすかな着地音と、人の気配がしたのは。
「誰?」
この気配。知ってる。知ってるどころか、忘れるわけがない。でも、本当にそうなの?こつこつと遠慮がちに叩かれる窓。カーテンに映る見慣れたシルエット。ぎゅん、と心拍数が上がる。は震えて言う事を聞かない手を叱咤しながら、カーテンを引き、窓のロックを外した。がらりと窓が開けられる。
「ただいま。」
月光を浴びて立っていたのは、世界の何よりも愛してるあの人。信じてた通り、何事も無い無事な姿で。
「くらま‥‥」
嬉しさと驚きで一瞬身体が固まった。
「うれしい‥‥」
次の瞬間、は、はじかれたように蔵馬の胸の中に飛び込んだ。飛び込んできたしなやかな身体を蔵馬は抱きとめて、そのままきつく抱きしめる。
「‥‥お帰りなさい」
腕の中から、少しくぐもったの声。
「心配してた?」
いとおしそうに髪を撫でながら耳元で優しく囁くと、は俯いたままこっくりと頷いた。
「、顔、上げて。オレに見せて。君の顔が見たいよ」
どきりと心臓が跳ね上がった。鏡を見たわけではないけど、今の自分の顔が、冷静に客観的に判断して、泣き腫らして腫れぼったい目と、その下の隈の所為で、『とても見られたもんじゃない』と言うLVになっている事は確実だからだ。と言うか、泣いてたと言う事実を知られてしまう&泣き顔を見られると言う事が『女の子』としては既にかなり相当だいぶ拷問だ。
「え‥‥と‥‥」
口ごもるの頬にそっと両手を添える。
「‥‥(////)」
驚きで、わずかに顔が跳ね上がったのを逃さずに、添えた両手で顔を自分の方へと向けさせた。最後に顔を見た時より、天使の頬、とも形容出来るまろやかなカーブのそれは、少し鋭角になっていて。腫れぼったい目はほんの少し前まで泣いていた事を、目の下の隈は自分がいない間に与えた心労の大きさを、如実に表していた。
「ごめんね」
額にそっと唇を落とす。瞼に、目元に、少しだけ鋭角な頬に、次々と降って来るやさしいキスの雨。最後の一滴は、ゆっくりと唇に。
「愛してるよ。」
今夜はもう、羊の数は数えなくて、いい。
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