座敷の喧騒が寄せては返す波のように聞こえてくる。まるで潮騒のように。
 吉原は今頃が最高に賑わう刻限である。あちこちの座敷から、三味線、鼓、謡声、笑い声、数々の音が集まって、潮騒の響きのように聞こえるのだ。
(ちっ‥‥)
妖狐蔵馬。いや、ここ吉原では、その正体を隠して、上方から江戸見物に来た狐だのどこぞの『上様』だなどと微妙に真実の混じった嘘八百を氏素性にしている銀色の妖孤は、顔には出さずに、この夜何度目になるか分からない舌打ちを腹の中で打った。
 ほかの座敷は、今最高潮の盛り上がりなのに、妖孤のいる座敷だけがしんと静まり返っている。お通夜の様なと言うと大げさかも知れないが、にぎやかな座敷と比べると、その位の落差はあるかも知れない。付け加えるならば、客が居るのに、座敷の主は不在である。
 座敷はこの上なく豪華なつくりだ。定紋蒔絵に金具を打ってある重ね箪笥に、その上に、まるで生きているかのように精巧な作りの人形。床の間には、華麗かつ流れるような筆致で描かれた山水画の掛け軸を飾り、品よく季節の花を生けた花入れ。屏風に二つ枕の飾り夜具。吉原の大見世美濃屋の太夫、胡蝶の本間座敷なのだから、豪華かつ趣味が良いつくりでない方が、どうかしている。何から何まで立派なつくりと構えで何の不足もなかった。座敷が静まり返っている、と言う事を除いては。
 妖孤はこの座敷でもう一刻(約2時間)は過ごしていた。先程までは仲居が酒の相手をしていてくれたが、その仲居も帳簿に呼ばれて、席を外し、今は全くの1人だ。傍らの酒の膳から、冷えた燗酒を盃に注ぐと自棄になったのか一気に飲み干した。
(間の悪い。こんなに運の悪いのも久し振りだ)
 誰の所為でもない自らの不運を愚痴るしかない。引手茶屋(遊女と遊ぶ時、その手配をする店)に上がるのが面倒くさく、おっくうだったので、直接美濃屋に顔を出したら、なじみの花魁、胡蝶太夫は不在だった。ここの所、身体の具合が宜しくないので、新造1人と禿一人を連れて、深川にある美濃屋の寮へ病気出養生に行ったと言う。
 しかし、だからと言って大見世で遊ばずに帰ると言うのは吉原では通人のする事では無いと思われていた。なじみの花魁の本間座敷に通されて、芸者や仲居を相手に飲むのが作法とされている。嫌な顔も出来ない。嫌な顔や振る舞いをしたら最後、店の者に無粋な客として、陰口を叩かれる事になるのだ。運が悪かったと思うしかない。他への八つ当たりもみっともないものだし。
 手酌で注いだ盃の2杯目を干したその時、階段を上がってこちらへと近づいてくる足音がした。
「へい、お客様、失礼いたします」
廊下から男の声が聞こえて障子が開いた。
美濃屋の若い者が夜具を担いでやってきたのだ。その後ろには胡蝶の妹分の振袖新造がついて来た。
「主様、今夜は大変に申し訳ありいせん。花魁は一昨日からの出養生でありんす。今夜はふつつかながらあちきがお相手をさせてくんなまし」
振袖新造が精一杯の愛嬌を見せて挨拶をし、三つ指をついた。いわゆる『名代』と言うやつである。なじみの花魁が病気や差支えが会って座敷に出れない時は、妹分の振袖新造が代理として座敷に出る。これが『名代』である。
「胡蝶は寮に行っているそうだな。病気とは気の毒な。今日はお前に相手をしてもらう事にしよう」
妖狐は内心の苛立ちを押さえて、鷹揚に答えた。
「では、お客様、ご用意をさせていただきます」
若い者はそう言って、本間に名代の夜具を敷き始めた。花魁の立派な三つ布団や二つ枕は使わせてはもらえない。名代の一つ布団に寝ることになるのである。盛大に舌打ちをしたいのを堪えて、妖狐は作り笑いを浮かべてそれを見守った。吉原で遊ぶのには、やせ我慢と辛抱が肝心、だったりするのだ。
 更に、と言っていいのか、名代が客の相手をした場合、もう一つの試練が待っていたりする。名代がするのは『話し相手』だけなのだ。手を付けたりする事は出来なかった。寝る時は、客が一人の一人寝である。それで居て、揚代は花魁本人を呼んだ時と同じだけ支払わなければならない。料金はびた一文たりとてまからない。本来の目的がかなわなかったとしても、取られる金子の額は同じ。客の側からすると腹立たしい事この上ないのであろうが、吉原で遊び、なおかつ上客として店から遇されたかったら『本来の目的』がかなわぬとか、名代に払う金子の額などでいちいち腹など立ててはいられない。いや、腹を立ててもそれを店側に気取られてはならない。
 別に金は惜しくないが、折角足を運んだのに肩透かしを食らわされるのは腹の立つものだ。その上、名代の振袖新造は大抵、14,15のまだまだねんねの小娘である。色里育ちで多少はませているとはいえそちらの趣味があるならともかく、子供が相手では、食指も動かぬ。
 煎餅布団が一枚、敷かれた。
「風情のないことで、申し訳ございません」
若い者は、恐縮仕切った様子で、頭を下げると、出て行った。
「‥‥今夜は、お前とおとなしく遊ぼう。一人で寝るのもつまらないしな」
そう言って、妖狐は初めてまともに名代の顔を見た。まず一番に目を引いたのは、その髪型。普通なら、島田だの兵庫だのに結っている髪が、若衆髷(現在で言うポニーテール)に高々と結い上げられており、もとどりのある辺りに蝶結びにされた組み紐と、数本の銀簪が見えた。病的な白さでは無い抜けるような白さの肌。いわゆる『美女』タイプの顔では無いが『可愛らし』く生気にあふれた顔は、数年後には、飛び切りの美女に育つ事を予感させた。ただし、振袖新造にしては、若干年を食っているようにも見える。老け顔、なのかも知れないが、どう見ても15の小娘には見えない。いい所17,8だ。
「そうおっしゃって下さってうれしゅうありんす。名代でお座敷に出て、お客様のご機嫌が悪いと、一晩中針の筵に座っているようでありいす」
名代の娘は、安心したように笑った。縮緬織の大振袖、柄は宝尽くし。絞りの掛け襟で帯は前結び。いかにも振袖新造らしい可憐な装いで、この娘には良く似合っていた。
「‥‥名は、何といった?どうも、忘れてしまったようだ」
と申します。お忘れでありいす?」
やや顔が曇る。どうやら思っている事が顔に出易い性質らしい。花魁として暮らすには少々不自由な娘のようだ。
「‥‥、三味線は弾けるな?」
唐突な問いにと言う名の振袖新造は一瞬目を丸くしたが、こっくりと頷いた。
「まだ、お稽古中で、上様にお聞かせするには、恥ずかしゅうありぃすが」
「このまま一晩中座っていても埒もあくまい」
その辺りに転がっていた三味線を拾うと、妖狐はにぐいと突き出した。無造作な仕草に、は一瞬戸惑いの色を見せたが、三味線を受け取ると、弦を爪弾きつつ、音の調整をはじめる。
「‥‥では、お耳汚しではありんすが」
チン、トン、シャン、トト、シャン、かき鳴らされる三味線は、確かに本人の言う通り、上手くはなかった。いや、正確に言うと、ある程度のレベルには達している。堅気の娘が花嫁修業の一環として学んでいるのであれば、普通に習い事として習っているのであれば、十分なだけの技量は備えていた。ただし、彼女の属する領域、吉原では、決して上手いと評されるLVのものではなかった。ありていに言うとヘタなのだ。ただ、音を追いかけているだけで、情感に欠ける。音に厚みが無い。奥行きも無い。上手い弾き手なら、必ずあるはずの厚みと奥行きと柔らかさが掛けていた。耳の肥えた聞き手なら、下手すぎて聞いてはいられまい。
「‥‥‥下手だな」
ぼそり、と呟いてみた。とたんにかき鳴らされていた三味線の音がやむ。
「申し訳ありいせん」
の顔が一瞬で真っ赤になって俯いた。
「どれ、貸して見ろ」
おずおずと差し出される三味線と、その撥。受け取って、軽く爪弾くと、おもむろに妖狐は三味線を弾き始めた。その音色を聞いた、の顔が、夕日のような赤から、一瞬で青白く染まった。彼女の爪弾いたそれよりもはるかに妖狐のかき鳴らしたそれが上手かったからだ。なまじ中途半端に技量があって、自分よりも技量の勝った演奏を始終聞いている環境にあるだけに、妖狐の三味線の腕が半端でない事は最初の一節を聞いただけで、には痛い位分かる。そして、そんな巧者の前で、中途半端な己の腕を披露したと言う事実に、穴があったら入りたい位の恥ずかしさを覚えた。
「もうちょっと、稽古を積まないといけないみたいだなあ。
一渡り弾き終わって撥を置くと、嫌がらせ以外の何者でもない言葉を妖狐は吐いた。
「まことに‥‥申しわけ‥‥」
の声は、消え入りそうに小さく震えている。姉女郎の名代でなければ、泣きながら座敷から飛び出したい、いや、そうしている。だが、花魁としては半人前の振袖新造と言えども、座敷を逃げ出すことは『手管』として行なう以外には、認められるわけが無い。客の前で涙を流すなんてもってのほかだ。
 目の前で、赤くなったり、青くなったりして、身を竦めている娘を見て、妖狐は、己のやりすぎに気が付いた。最後は一人寝になるとはいえ、夜はまだ長いのだ。今、この娘を泣かして逃げられてしまったら、これからの時間、どうやって暇を潰せと言うのだ。幸い、目の前の娘は、振袖新造としては少々トウが立っている分、まるっきり子供と言うわけでもなさそうだ。話し相手位は勤まるだろう。完全にトウの立ちきった大年増の仲居を相手に盃を重ねるよりは、この娘の下手な三味線を聞いている方が、多少はマシと言うものだ。少なくとも、からかうと面白い。少しは機嫌を取ってやった方が良いな、と妖狐は判断し、記憶を辿った。この娘の得手な芸事を思い出そうとしたのだ。姉女郎の胡蝶の座敷には、当然妹分のも控えている。今まで大して気にもしてなかったが。何か芸事を披露した事もあったはずだ。
「小唄(うた)は、歌えるか?」
確か、胡蝶が喉を痛めた時に、代わりに歌った事があったはずだ。存外に良い声で歌ったのを覚えていた。
「はい」
まだ、声は少々震えているが、先程よりはしゃんとした声で返事が返る。
「伴奏してやるから、何か歌って見ろ」
三味線がなる。は、たしたしと自分の膝を叩いて拍子を取りながら、歌いだした。
♪君とねやろか  五千石とろか  なんの五千石  君と寝よ
            しょうんがいな
♪君の寝姿  窓からみれば  牡丹芍薬  百合の花
            しょんがいな

綺麗な、声だった。澄んだ良く通る声は、もしかしたら、姉女郎を越えているかも知れない。三味線の技量の低さが嘘だと思える位、彼女の歌声は素晴らしかったのである。天下の旗本と吉原の花魁とのお家をかけた道ならぬ恋を切々と歌い上げるその技量は確かに巧者のそれだった。
「上手いな。結構なものじゃないか」
感心した様子で、いや、実際感心して妖狐は声をかけた。三味線の腕から察するに、良いのは声だけと思っていたのだが、良い意味で当てが外れた。
「そんな‥‥まだまだ、お稽古中の半人前ざんす。お褒めの言葉はいただけやせん」
「他には歌えるか?」
「はい。何が宜しゅうござんすか?」
褒められた嬉しさからなのか、顔色が歌う前までの、今にも倒れそうな真っ青な顔色から、ほんのりと薄紅色の頬に変わった。
「そうだな、何か楽しげなものがいい」
妖狐の言葉に、は首を傾げてしばし考えていたが、じきに、また、たしたしと膝をたたき出した。
♪ 夏の納涼(すずみ)は両国の  出船、入船、屋形船
  揚がる流星  星降り(くだり)  玉屋が取り持つ縁かいな
♪ 春の眺めは吉野山  峰も谷間も爛漫と  一目千本二千本
  んー花が取り持つ縁かいな
♪ 秋の夜長をながながと  痴話が昂じて  背中と背中(せなとせな)
  晴れて差し込むあげ障子  んー月が取り持つ縁かいな

先程の物悲しげな調子とはうって変わった華やいだ声。本格的に稽古をはじめて、まだ二桁の年は重ねていないはずなのに、彼女の技量は10年以上修行を積んだ、巧者のそれと変わらぬ様に見えた。
このまま年を重ねたら、吉原で一二を争う、いや、下手をしたら、江戸で一二を争う唄い手になるのでは‥‥と言う予感すら感じさせる。
「‥‥いかがでありいした?」
歌い終わったが声をかける。
「いや、感心だ。正直ここまでのものとは思っていなかった。素晴らしいじゃないか」
ぱちぱちと手まで鳴らして妖狐は褒めちぎった。そして、その次を所望する。
頷いて、次々とその喉を披露する。しかし、幾ら年とは反比例した技量の持ち主とはいえ、立て続けに何曲もの唄を殆どノンストップで歌い続けて、喉に負担がかからないわけはなく、歌い疲れたはとうとう、
「これ以上は、歌うと、声が止まりそうでありんす。主様どうぞ勘弁してくんなんし」
と、のどに負担を極力かけぬように出した声で、自らの限界を告げた。
「ふむ‥‥もう無理か」
少し残念そうな様子の妖狐。実際残念ではあったのだ。この娘の唄は、非常に耳に心地よく響くので、できれば、眠気が襲ってくるまでは聞き続けていたかった。の唄で大分時が過ぎたとはいえ、まだまだ夜は長い。これからの時間をどう潰そうか、妖狐は思案した。
「何か、唄以外のものがあるか?」
「え‥‥‥では‥‥」
は、ちょっと考えると、己の懐から、輪になった紐を出した。両の親指と小指に紐をかけて、ぴんと張ると、他の指で紐を手繰ったり、かけたり取り合ったりをしばし行なう。
「こういうのは、いかがでありんす?」
と、複雑な形に絡み合った紐を、にっこり笑ってその両の手ごと妖狐の目の前に差し出した。
「あや取り、しなんしょう」
妖狐は噴き出した。吉原(ここ)では正体は隠しているものの、泣く子も黙り、その名を聞いたら下手な妖怪なら恐怖のあまり震え上がる、伝説の大盗賊、妖狐蔵馬に対して、このと言う名の娘はこともあろうに『あや取り』をして遊ぼうと言ったのだ。その事に対しては、妖狐の正体を知らぬがゆえの大胆な振る舞いとも言えようが、たとえ振袖新造と雖も、吉原の妓(おんな)が客に対して『あや取り』しましょうと言うとは。この娘は変わっている。髪の結い方も、面白いように表情のくるくる変わるさまも、下手な三味線も、それに反比例するような美しい声と歌の技量も。だが、その『変わっている』有様は、妖狐にとって不快なものではなく、むしろ好ましいものとして映った。
「俺は、あや取りは知らないが、、教えてくれるな?」
妖狐は笑いながら、が差し出した両の手の紐をへと手を伸ばした。
「はい。あちきがいちからご指南いたしやす」
その言葉の通り、は1からあや取りのやり方を教えた。紐をどの指でどう取って、どんな風に手繰ってくぐらせたら良いのかを懇切丁寧に一つ一つ妖狐に教える。じきに、紐がの手から、妖狐の両の手へと移る。移った紐は、が差し出したのとは、別の、複雑な形に絡み合っている。
「今度は、あちきが取る番でありんす」
つい、との両の手が伸ばされた。の手指は、妖狐の手の紐をせわしなく手繰り、瞬く間に自らの手にその紐を移した。またも、に取り方を教えてもらいながら、妖狐は彼女が取ったよりははるかにゆっくりと、その紐を手繰り、自らの手に移す。が手早くその紐を自分の手に取る。そんなやり取りが幾度か続いた後、自分の手から、あや取りの紐を手繰っている妖狐の様子を見ながら、ポツリと呟いた。
「あちきが、一人前の花魁だったら、主様に淋しい思いをさせずに、おもてなしできいしたのに」
『おもてなし』の意味を色里で育った娘が知らぬはずは無い。いや、その『おもてなし』をする為に育てられた娘なのだから、知らない方がおかしい。つまりは、そう言う事なのに、そんなけなげな事をは一人前でない自分を恨むように、さらりと言ってのけた。
、お前、歳はいくつだ」
一体この娘は、幾つなのだ。普通の新造の年恰好では無いのに、なぜ、今だ振袖新造を勤めているのだろうか。けなげな物言いに、あや取りの手が止まり、ついそんな言葉が口をついた。
「あれ、主様、そんな事を女子(おなご)に聞くのは性悪な半可通でござんすよ」
半人前でも、吉原の花魁の端くれらしく、はそう言って、やんわりとその問いをはねつける。
「野暮は承知だ。オレが胡蝶の馴染でも、いえぬ話か」
姉女郎の名を出されて、流石に観念したのか、はあや取りの紐を解くとため息混じりの声で
「17でござんす。年が明けたら18になりんす」
と返答した。
「17か。道理で他の振袖新造よりは大人びて見えるわけだ」
「‥‥本当なら、もう一人前の花魁になっている年でありいす」
そう言って、はため息をついた。そして、自分がお稽古を積んでもお琴と三味線が下手な為に水揚げの相手も日取りもいつになっても決まらぬのだとも言った。
「お前、三味線だけでなくて、琴も下手だったのか」
遠慮の無い物言いに、の顔が曇った。
「‥‥普通の花魁になら、明日にでもなれると、胡蝶姐さんはおっしゃいやんした」
は口を尖らし、自分の芸の下手さは承知しているが、本当の意味で救いようのないものでは無いのだ、と言う事を言外に示す。
「でも、今のあちきだと、胡蝶姐さんの様にはなりゃんせん」
胡蝶姐さんの様な、と言う言葉で、妖狐は、このと言う娘がこの歳で振袖新造なのはなぜか、と言う理由が明白に分かった。この娘は『太夫』になる為に仕込まれている娘だったのだ。
琴、鼓、三味線に優れ、茶道、香合、生け花に通じ、詩歌、俳諧、和歌を嗜み、書道と絵画を良くすると言う、女として最高の教育を受け、学識をもち遊芸に達し、かつ、閨の技にも優れていると言う、どんな大名の奥方も、公卿の子女にも見られない『何処にもいない女』『最高の女』、いわば、『才色兼備のスーパーレディ』であるのが『太夫』の位にいる花魁なのだ。容貌は、美しいものしか太夫としての教育を受けるのを許されないからこの場合は問題外となる。とて、今はずば抜けた飛び切りの器量よし、と言うわけはなく、普通の綺麗な娘であるが、数年後には飛び切りの美女に育つであろうことを、妖狐が看破しているのだから、容姿に関しては問題が無いのである。
ただ、『太夫』として、美濃屋の花魁になるには、芸事の技量が足りないと、それだけの話である。の三味線は確かに『太夫』が弾くと思えば、下手くそな三味線であるが、『格子(太夫の次のランクになる高級遊女。このランクまで、嫌な客を振る事ができた)』になるのなら、まあ、問題は無い程度の下手くそさだし、『散茶(格子の下になる。このランクから客を振る事は出来ない)』になるのであれば芸事をきっちり納めている分、散茶でもかなり格の高い扱いを受けるのは間違いなかった。
が、しかし、彼女は『太夫』になるべく仕込まれている娘だ。最高級の花魁として、この店を背負って立つ一人にならねばならぬ娘だ。『普通の花魁』ではいけないのである。そして、芸の下手な太夫など、いてはならない。いてはならないために、は振袖新造でなければいけなかった。自身も、『一人前』になる為、必死に稽古に励んでいるのであろうが、芸事と言うものは、必死に稽古をしただけでは、本来の意味で上達などできぬ。自分と同輩の振袖新造がとっくに『一人前』になっている歳だけに、自分が『半人前』であらねばならぬ事は、彼女に取って気持ちの良い事ではあるまい。
、お前も、後1,2年もすれば、美濃屋を背負って立つ、立派な花魁になれるだろうさ」
あえて、『太夫』と言う言葉を使わずに妖狐はそう言った。
「あちきも、胡蝶姐さんの様な花魁になれんすか?」
「ああ、きっとなれる。この部屋のような、立派な座敷を持った花魁になれる」
「本当でありんすか?あちきも三つ布団や屏風や、お人形があるお部屋を持てんすか?」
目をまん丸にして、は言う。
「ああ。あれだけ立派に歌えるんだ。直に他の芸事も上手くなるだろう。そうしたら、も立派な花魁だ。三つ布団が欲しければ、一人前になっ たらオレが贈ってやる」
「うれしゅうありんす。あちきが一人前の花魁になったら、今夜のお返しにきっと、主様をおもてなしいたしいす」
まるで約束をするかのような口調では言った。
「一人前になったら、一番の客はオレにしてくれるか?」
ふと、そんな意地悪な問いが口をつく。本人に、その様な選択が出来ぬことは承知の上で。
「ええ。一番(いっち)最初のお客様は、上様にしいす」
花がほころぶような笑顔では答える。その顔は、どんな花魁にも負けぬほど美しかった。
「その代わり、一番最初のお客様は、お布団だけでなくって、道中のお衣装も揃えないといけなんし。お金(あし)が沢山要りやんす。ご存知でありんす?」
「ああ、知ってるさ。心配するな。江戸で一番の上物を贈ってやる」
答えながら、妖狐は、自分の言葉が、戯れの戯言では無いなと思った。この娘の水揚げをするのは自分だと、そう、思えた。
「じゃあ、お約束の指きりでありんす」
白い小指が妖狐の小指に絡んだ。
『指切り』は本来、遊女が自分の心底惚れた相手に、その証として自分の指を切り落として渡す事。花魁がたった一人の男に惚れ抜き、尽くしぬけば、待っているのは破滅だけ。それゆえに、それは凛と立つ誠。
「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本のーます」
絡み合って、上下に数回振られた指。『指切りげんまん』の『指切り』でも、込められたの気持ちは、真実。嘘が常の色里にあって嘘と虚飾を吸い上げて咲く誠の花。
「道中はどんな衣装がいいか、よく考えておくんだな」
「吉原(まち)中の人達から、褒められるようなお衣装がようござんす」
無邪気に言う
「早く芸が上達しないと大変だぞ」
「ええ。毎日たくさんお稽古しんす」
そうお互いに言って顔を見合わせると、2人は多分、他の誰にも見せた事の無いような『良い』笑顔をお互いに見せた。




コメントと言う名の言い訳
せーやさんからのリクエストによる妖狐ものです。お狐様のドリームは、これがお初です。
私、しいて言えばお狐様よりは南野蔵馬が好きなので、どうしてもネタ出しもお狐様が後になってしまうと言う‥‥(笑)
時代劇です。江戸時代です。遊郭です。ええ、秋光の趣味大全開です。趣味のあう方にしかわからない形で、ひねくれたエロチシズムが満開です(マテ)
当時の風俗とか生活習慣とか遊郭の事とか分かってると、この作品に秘められた淫靡さとかインモラルさとかいかがわしさとかを発見するだけの深読みが出来ると思いますので、更にお楽しみになれるかと。
深読み出来る様に(ヲィ)脚注は殆ど付けてない不親切設計なので『わかんないから説明しろやゴラァ!』と、要望が多かったら、脚注つけた改訂版を作って、差し替える予定です。とりあえず必要最低限しか説明つけてませんです。はい。
一応時代設定としては江戸中期位。田沼時代か、その後位?でも、割と江戸の各時代ごっちゃにして書いてます。
作品中ヒロインが口ずさんでる小唄も、一つは明治時代のものなので、大嘘かましてます。でも、元ネタが天保期か天明期にあって、それを明治に復活させて歌ったもの、と参考にしたWEBページにあったので、じゃあ同じ歌詞はあったわけだから、使っても大丈夫よねと歌わせてみました。まさか、かっぽれ歌わす訳にもいかん(爆)ギャグじゃないんだから(笑)
本当にその時代に詳しい方が見たら、突っ込み所満載のはずです。話優先でリアリティを無視して嘘書いてる所もあるし(笑)
着物とか、小唄とか、下調べにえらい時間のかかった作品でした。秋光は、本当の事が分かってて嘘を書くのと、分かってなくて嘘を書くのでは、文章に込められるリアルさは全然違うと思ってるので。
そして、半可通はいかんと思いましたな(汗)着物については若干知識はあったつもりなんですが、いざWEBで調べてみると、知らない事だーらけ(笑)知らない事ばかーりだったですよ奥様(>w<;;
続きを書く日の為に、もうちょっと精進します。また、この時代詳しい方色々ご教授下さると秋光泣いて喜びますので、教えてくださいませm(__)m