気が、重い。母親が倒れてから、ずっと気分は沈んでいる。心の天気はずっと鉛色の分厚い雲で覆われた曇り空か、雨。きっとこの雲は一生晴れる事が無いだろう。ため息をついて、母親を見舞う為に電車に乗ろうと駅構内を移動している蔵馬の目に、紺のブレザーにグレーのスカートの制服姿な女の子の一団が飛び込んできた。あの制服、紺ブレにグレーのボックスプリーツスカートと幅広リボンタイのそれは、この辺りの地区で、蔵馬の在籍する盟王高校と並んで偏差値が高く、中学から大学院までエスカレーター式な名門のお嬢様校として名を馳せている聖ソフィア女学院のものに間違いない。デザインの凝った制服が氾濫する今時の風潮と逆行する、シンプルでベーシックなデザインのそれは、凝ったデザインの派手な制服姿の女子学生の多い駅の構内で、逆にそのシンプルさとそれゆえの清楚さで蔵馬の目に飛び込んでくる位目立つものになっていた。まさに我が世の春とでも言った様な若さと生気にあふれた彼女達の姿を見て、蔵馬はいまいましそうに、また、ため息をつく。
「あれだけ元気があふれてるなら、母さんに分けてもらいたいよ」
思わず口をついて出てきた言葉に苦笑した。そんな事をした所で、母親の病気が治らない事は自分が一番良く分かっている。ただ、少しの間だけ、命を永らえる事が出来るだけだ。他人の気を注ぎ込むだけでは、病気を治す為の根本的な解決になどなりはしないのだから。まとわり付く、考えてもせんの無い事を振り払う様に頭を一つ振って、また、ため息をつく。その時だった。
「待ちなさいよ!ちょっと、止まりなさいってば!!」
明らかに少女のものと分かるけたたましい声が駅の構内に響いて蔵馬の鼓膜を打つ。目の前を少しくたびれたスーツのサラリーマン風の男が誰かに追われているかの様に、人波を縫っていった。
「逃げるな〜っ!!待ちなさいって言ってるでしょ!」
また、少女の騒々しい声。視線を飛ばすと、今の今まで蔵馬がある意味見とれていたソフィアの制服を着た少女がひとり、男の後を追っていた。片手には学生カバンとランチケース。ポニーテールにきりりとまとめた栗色の髪をなびかせて、ホームの階段を一段飛ばしに駆け上がっている。やや遅れてもう一人の同じ制服の少女もポニーテールの彼女の後を追っていた。追いかける彼女の後からも、同じ制服の数人の少女が階段を追いかけるように駆け上がる。
「‥‥待ってよ‥‥」
少女を追いかける長い黒髪を一つの編みこみにした、整っているが大人しそうな顔立ちの少女が、先行する少女を呼び止めた。
「!早くしないと、あいつ逃げちゃうってば!早く捕まえて殴らないと、一生後悔するよっ!」
、と呼ばれた栗色ポニーテールの少女は、いらいらした様に返事を返す。
「もういいよ。のおかげで、あまりたいした目にあってないし」
「いーや、よくないっ!あーゆー馬鹿にはちゃんと正義の鉄槌下してやんないとダメだって!」
ようやく先行する少女に追いついて、とりなしの言葉をかける黒髪の少女‥‥どうやら、と言う名前らしい‥‥にそう言い返すと、と呼ばれた少女はまた、一段飛ばしに階段を駆け上がりだした。階段を上り終わって、人波に目を凝らす。
「‥‥見つけた!あんなとこにいやがりあそばしてる」
そう言って、と言う名の少女はまた走り出した。走りながら、持っている学生カバンを邪魔だと言うかのように後ろへと投げ捨てる。投げ捨てられた弾みと地面に叩き付けられた衝撃でカバンの蓋が開き、中身が周囲に散乱した。教科書やノートやペンケース、クリアファイルが、そして、そこからこぼれた、プリントが幾枚か宙を舞って四方八方へ散らばる。
「!カバン!」
「分かってる!悪いけど、拾っといて〜〜」
そう言いながら、はまだ手に持っていたランチケースをハンドボール投げの要領で、逃げる男めがけて思いっきり投げつけた。
「当たれ〜〜っ!!」
投げられたランチケースは大きな放物線を描いて、見事に逃げる男の後頭部を直撃した。痛みと衝撃に、男は思わずその場にうずくまる。
「‥‥っビンゴぉっ♪」
ガッツポーズを作ると、そのままは大きなストライドで男の元へと走り寄る為カモシカのように駆け出す。男はようやく痛みを振り切って、また、この場を立ち去るため動き出そうとしていた。
「逃がさないわよ〜っ!」
走りながら、今度は、走り幅跳びの様に大きく地面を蹴って踏み切る。そのまま片方の膝を中腰になりかけてる男の背中に叩き込んだ。蛙がつぶれる様な声を上げて、男はそのままコンクリートの床へと前のめりに倒れこむ。すかさず、は、倒れた男の背中を、膝蹴りを叩き込んだ方の足で踏みつけ、片方の腕を背中へとひねり上げる。あまりに鮮やかな、そして手馴れた様子の一連の動きに、興味を駆られて一連の様子を見ていた蔵馬の口から、思わず小さな口笛が漏れた。
「お見事♪」
呟いて足元にまとわりつくB4サイズの紙を拾い上げる。おそらく、先程ポニーテールの少女が投げ捨てたカバンからこぼれた中身の一部。見ず知らずの人間だし、こんなもの捨ててもいいのだけど、鮮やかな手並みを見せつけてくれた御礼に、後で返しに行くとしよう。
「捕まえたっ!も〜逃げられないわよ、観念しなさい!」
この一連の捕り物劇を見て、誰かが連絡したのだろうか、が男を踏みつけ腕をひねり上げて、高らかに勝利宣言をしたのとほぼ同時に、駅員が数人、彼女と彼女が逃げられぬように踏みつけている男の元へとやってきた。
「一体何があったんですか」
「あ、良い所に。駅員さん、この人、痴漢です!警察呼んでください!」
声をかける駅員には自分が踏みつけている男を示した。
「‥‥誤解だ。俺はやってない!」
腕をひねり上げられる苦痛にまみれた声で、男は反論する。
「ウソばっかり!私、貴方がのお尻触ったのちゃんと見てたんだから!私以外にもソフィア(うち)の生徒(こ)が何人も見てるんだからね。証人はいっぱいいるのよオジサン!」
踏みつける足に体重をかけて、ぐりぐりと踏みにじりながら、は男の反論を切って捨てる。そこへようやく、が追いついて来た。
「‥‥」
「あ、。も言ってやってよ。こいつが触ったんでしょ。間違いないよね?」
半ばあきれた口調で、二人分のカバンを持って声をかけたに、はそう言って尋ねた。
「こいつが触ったんだよね。ちゃんと顔を見てたんだよね」
「‥‥うん、それは確かに間違いないけど、でも、、もう、いいよ。そんなに騒がなくても」
間違いない、と、男が犯人だと言う事実を認めながらも、はをなだめる様な返事をする。
「ダメよ!こーゆーヤツはいっぺん捕まって、痴漢は犯罪だってきっちり思い知らせてやらないと!一度檻の中に入って、自らの愚行を反省するべきだわ!」
反省するべきだわ!と言うと同時には踏みつけた足で、だんっ!と、もう一度男の背中を踏みつけるように蹴る。男の喉からうめき声があがった。
「お嬢さん、過剰防衛ですから、やめてください」
見かねた駅員が口を出して、ようやくは背中を踏みつけていた足を下ろした。くたびれたスーツの背中には、ローファーの足跡がいくつか残っている。
「‥‥その手も離してください。お友達が痴漢にあって怒ってるのは良く分かりますけど、ちょっとやりすぎですよ」
さらに畳み掛けるように駅員に言われて、はしぶしぶひねり上げていた手を離して、男を自由の身にした。だが、その目は、男が何か不穏な動きをしたら、容赦なく叩きのめすとでも言うような剣呑な光がしっかりと宿っている。おそらく最初の膝蹴りの時にやったのだろう。男の顔は盛大に擦り傷が出来ていて、血がにじんでいた。
「で、貴方は、どうしたいと思いますか」
駅員は、本来の被害者であるに声を掛ける。彼女は首を少し傾げてしばし考え込んでいたが、
「えぇと‥‥、私、そんなにもう騒がなくてもいいかなって思います。この人がちゃんと謝ってくれて、もうしないって言うんなら、警察とかにも知らせなくっていいです」
そう返答した。
「!」
不満そうに名前を呼ぶ。
「確かに、超むかついてるけど、が私の分までしっかりお返ししてくれたから、私もういいの。それに警察に行ったら、親にも迷惑かけちゃうし」
はそう言って笑う。
「だからね、もういいよ。の膝が入って倒れたのを見た時、本当にスカッとしたわ」
「本当に?」
「うん。本当に」
「‥‥がそう言うなら、しょうがないや。それでいいよ」
まだ納得はしきれてないのだろう、不承不承といった色を、隠そうともしないでは言う。警察には届けなくて良い、と言ったの言葉を聞いて安堵の表情を浮かべた男の顔をぎっと睨み付けた。とたんに蛇に見入られた蛙のように、男の顔に恐怖の色が浮かぶ。世間的には『お嬢様校』の評判が高いソフィア女学院の生徒に、こんな腕っ節の強いはねっ返りがいるなんて、思っても見なかったのだろう。
「ちょっとオジサン」
ずい、とは一歩前に進み出て、自分より頭一つは確実に背の高い男の胸倉をつかんだ。
「!やめなよ」
不穏な空気を察知したが制止の声を上げる。
「だいじょーぶ。殴んないから。殴りたいけどねっ」
はそう返事を返して、掴んだ手にぐいと力を入れた。
「大体、タダで触ろーって魂胆がそもそも間違ってるわよ。だからって、お金くれたら触って良いって事じゃぁないけどさ」
至極まっとうな正論だが、この娘の口から出ると、なぜか過激で危険な発言に聞こえるのは何でだろうか。
「そーゆー事やりたいんだったら、ちゃんとお金払ってプロに相手してもらえば良いじゃない。素人に手ぇ出す位なら、風俗に行けって言ってんのよ風俗に行けって!!」
今度こそ過激な発言を行うと、は胸倉を掴む手を勢いよく、まるで突き飛ばすかのように離した。急に手を離されて、男はバランスを崩して無様に尻餅をつく。
「あの、駅員さんすみません」
「‥‥え?ああ、どうしました?」
美少女かブスかの二種類でカテゴリ分けするならば、美少女に分類できるだけの容姿を備えている少女の過激な言動に圧倒されっぱなしだった駅員の反応には、一瞬の間があった。
「警察に届けなくってもいい、って事は、私たち、もう、この場にいなくっても良いって事ですか?」
「え、あ、そうですね。警察を呼ばないのなら、もう、この場にいなくってもいいですよ」
失調気味だったが、駅員はそれでも、きちんとの疑問に対して答えを返す。
「それじゃ、私たち、これで失礼します。お騒がせしてすみません。ありがとうございました」
その返事を聞いて、は今までの過激な言動と反比例するかのような丁寧な口調で、駅員に礼を述べると頭を下げた。
「わざわざありがとうございます」
もそう言ってぺこりと頭を下げた。『今時の女子高生』できちんと丁寧な挨拶のできる子と言うのは、たくさんいるようで意外に少ない。言動がどうであれ、やはり『歴史と伝統』のある『お嬢様校』の生徒なのだろう。しつけの厳しさと育ちの良さはふとした拍子ににじみ出るものだ。もっとも、きちんと感謝の言葉を述べた後は、やっぱり『今時の女子高生』らしく、これからの寄り道の事など話しながらきゃらきゃらと笑って立ち去ったのではあるが。
「‥‥しまったなあ。返すタイミング、逃したみたいだ」
騒ぎが収まって、散り散りになりかけてる人垣の中で、蔵馬は先程の栗色ポニーテールの少女が落としたプリントを手に呟いた。
「やっぱり、返しに行ってやるのが、人の道って言うべき、なのかな」
続けてそう呟くと、拾ったプリントに改めて目を落とす。どうやら数学の演習プリントらしいそれの一番上には、『1−A 23番 』と、やや丸っこい男女の区別がつきにくい筆跡で、先程の少女のクラスと出席番号と名前が記されていた。
「それにしても、変な子だよねえ。ソフィアの子は、もっと大人しくて女の子っぽい子ばかりだと思っていたのに」
今まで自分が抱いていた『お嬢様校』の生徒に対するイメージを裏切られて、ちょっと複雑な気分になる。まあ、自分自身が学校の中で微妙に『不良じゃないけどアウトロー』的な空気をまとった『優等生』という、『一般的盟王生のイメージ』からは若干外れたスタンスにいるから、先程の少女の『変な子』ぶりにも気が付いたのだろうけど。
「‥‥ 、か‥‥」
呟いたその名前が、近い将来、自分の『未来(これから)』を大きく左右するものであると言う事に、この時の蔵馬は、まだ、気が付かないで、いた。
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