「‥‥信じらんない。あの霧の中、全然スピード落さないで道も間違えずに走ってる?!」
水の精霊の少女が驚愕の声を上げた。
「多少まともじゃない人間とか人間外のものでも、あの霧だと、ちょっとは迷ったり、スピード落ちたりするのに‥‥」
「と言う事は、今こちらに向かっている何者かは、多少以上にまともじゃない存在と言う事、だな」
やれやれと言う様な口調の地の精霊。
「2人とも、もうすぐ、そいつ、こっちにつきそう」
風狼の仔が首の後ろの毛を逆立てた、警戒の表情で言う。とたんに残り2人の顔も厳しいものに変わった。
3人が緊張の色を強めて、ひとつだけしかない、出入り口を凝視したその時、『多少以上にまともじゃない存在』な『侵入者』が、その姿をあらわした。
艶やかな黒髪を持ち、長身ですらりとした均整の取れた肢体に学生服を着た、眉目秀麗な少年――蔵馬の姿。
いつもなら、穏やかな人あたりの良さ気な表情を浮かべているその顔は、今はビスクドールのような冷たく整った笑顔。漂わせている気配も、あからさまな敵意とか害意は無いものの、自分の邪魔をするものには容赦しないと言う意志が手に取るように感じられる、それ。
「‥‥あなた、誰?何しにきたの?」
尋ねる水の精霊の少女の声が、心なしか硬いのは、その気配に圧倒されている為、なのかもしれない。
「その質問には答える必要は感じないので言いません。‥‥ああ、そうだ。別に貴方達に敵意はありませんから安心して下さい。ただし、オレの邪魔をすると容赦はしませんから、そのつもりでいて下さいね。今は、他人に対して優しく出来そうにないんですよ」
水の精霊の少女に答える蔵馬の口調は丁寧だが、その奥には毒がたっぷりと仕込まれ、おまけに表面は冷気でコーティングされている。湖に身体を半分沈めているの姿を発見すると、一瞬目をすうっと細めて、足早にそちらへと歩みだした。
「ダメ!そっちには行かないで!」
慌てて水の精霊の少女が蔵馬の前に立ち塞がる。他の2人もそれに倣った。
「儀式の邪魔をしないで!もうすぐ終わるんだから!」
「儀式?そんなの俺には関係ないですから」
言い放つ蔵馬の声も顔も氷点下の冷たさ。
「ダメ。の邪魔しないで!あなたが誰だか知らないけど、の邪魔は誰もしちゃいけないの!」
「オレはその『儀式』を止める権利なら、十分持ってます。その位の権利はある存在ですよ」
生きたビスクドールと言った表情で蔵馬は言う。その眼光と漂う妖気は、妖狐の姿の時のそれとあまり変わらないような鋭さと強さ。
「何でそんな事言うのよ!そんな事言うあなた誰?名前くらい言いなさいよ!」
僅かに怯えの色を含ませながら、それでも蔵馬の前に立ちふさがる事は止めない水の精霊の少女をはじめとする3人の精霊。
「おや、貴方達は、とは仲が良いみたいだけど、オレの事は彼女から聞いていないようですね。蔵馬って言ったら、もしかして分かりますか?」
「くらま‥‥蔵馬‥‥あ‥‥もしかして‥‥」
水の精霊の少女の顔色が変わった。
「その様子だと、オレの姿は分からなくても素性は知ってるって感じですね。これで、オレが『儀式』を止める権利があるのはよく分かってくれました?分かったなら、どいて下さい。最後の警告です」
一旦言葉を切って薄く笑う。
「どかなかったら、実力でどかしますから」
そう言って、顔色を変えた水の精霊の少女に獲物を弄る時の獣の様な目を向けた。
「‥‥あなたが蔵馬でも、あたし達はどけない。ううん、あなたが蔵馬だからもっとどけない。はあなたのことを心配してたから」
きっぱりと精霊の少女は言う。蔵馬の腰ほどの高さから見上げてくるその目は、彼女の意思の固さを如実に表すもので。
「じゃあ、貴方達はどうしてもオレの邪魔をするって事で、良いんですね?」
問いかけの形を取っているが、それはもはや相手の答えを期待しているそれではなかった。蔵馬の言葉が終わるか終わらないかの内に、何か種のような物が数粒、彼の手の中から、水の精霊の少女達の足元に打ち込まれる。その種は地面に触れたかと思うと一瞬で刺のある蔦の姿に変わり、まるで動物の様に蠢いて、少女たちを締め上げた。3種類の苦痛の声が、洞窟内にあがる。
「痛いでしょうけど、暴れなければ今以上の怪我はしませんから」
目を細めて笑い、いっそ爽やかとも言える口調と声で蔵馬は言う。そして湖に身体半分を沈めているの元への歩み寄りを再開した。蔵馬が洞窟のこの場所に姿をあらわしてからの一連の騒ぎは、普通なら誰もが気が付いて何らかの反応を示したであろう規模のものだったのに、湖の中にいるは、何らかのリアクションを見せるどころか、その後姿に何の変化もない。ただ、呪文を唱える声にのみ、抑揚がつけられているだけだ。おそらく『儀式』の間は、ある種のトランス状態になって、外界からの刺激には反応しなくなっているのであろうと推察される。湖の水面にどう好意的に解釈してもまがまがしい気を放っているとしか思えない、どす黒い何か――魔界の瘴気が浮かんでいるのを目にした蔵馬は、またしても生き人形のような表情へと変わる。
「はねえ、あなたに心配かけたくないって思ってた。あなたのことが大事だから、そう思ってた。だから、ダメ。もうすぐ終わるの。今まで待てたんでしょう。だったら、後もう少しだけ、待ってあげてよ!」
蔦に絡みつかれ、締め上げられながらも、水の精霊の少女は悲痛な声で叫び、蔵馬に手を伸ばそうともがいた。その瞬間、少女をはじめとする精霊たちに絡み付いている蔦が、ぎちぎちと音がする程全員の身体を締め上げ、同時にその表面から、何か液体を噴き出した。つんと鼻につく匂いのそれ――おそらくは何らかの種類の酸だと思われる――は、精霊たちの身体を容赦なく焼きあげて、傷つける。その焼けた皮膚に蔦から生えている刺が容赦なく食い込んで更なる苦痛と痛みを彼らに与えた。
「―――――!!」
もはや、人間の言語を話す余裕もないのか、意味ある人の言葉とは取れない3種類の絶叫が精霊たちの喉からほとばしり、人間と変わらぬ色の赤い血がぽたぽたと滴り落ちて地面に染み込む。そして、彼らの絶叫と同時に、洞窟全体がまるで苦しんでいるかのように『揺らいだ』。『普通の人間』には感じ得ないであろう、霊的な『揺らぎ』、苦しいと、助けてくれと訴えているような、泣いているような『揺らぎ』が繰り返し繰り返し起こる。
「‥‥暴れなければ、あれ以上の怪我はしないって言ったのに、どうして分からなかったんでしょうね」
彼らに苦痛を与えている張本人だと言うのに、まるで他人事のように蔵馬は呟く。彼にとっては、精霊たちの苦しみも、洞窟の『揺らぎ』も何の意味もない事のようだ。
だが、その苦しみと『揺らぎ』は確実にある一つの変化を起こした。今まで、高く低く、延々と響いていたの『呪文』がぴたりと止まったのだ。半眼で、どこを見ているのか分からない、トランス状態だった瞳に、はっきりとした意思の光が戻る。
「‥‥泣いてる‥‥」
呟いて、先程までは表情の乏しかった顔が悲しそうにつらそうに歪む。今まで背中を向けていた陸地の方にくるりと身体の向きを変えた。
「どこ?どこで泣いてるの?」
『揺らぎ』の大本を探ろうと、の視線がせわしなく動く。ようやく生き物のように動く蔦と、それに締め上げられてもがいている3人の精霊を発見して、水の中から急いで駆け上がった。地面を踏みしめた瞬間、瘴気を吸ってどす黒く染まった足がぐらりとふらつく。しかし、は今までの様に座り込むことも倒れる事もせずに、襲ってくるめまいに顔をゆがめながらも、しっかりとその場に踏みとどまると、改めて精霊たちを捕らえている蔦へと駆け寄った。その近くに立っている蔵馬の存在など、まるで無いかのように。
「どうしたの?痛かったよね?すぐに助けてあげるから、もう泣かないで。泣かないで、もう少しだけ我慢してね?」
精霊たちに話し掛けるの口調と様子は、母親が子供に話し掛けるときのそれとよく似ていた。
本来なら、覚醒したら真っ先に蔵馬の所に駆け寄るであろう彼女が何故、蔵馬の存在を無視しているのだろうか。いや、もしかしたら、意図的に無視しているのではなく、トランス状態から目覚めたばかりな為に、自分を覚醒させた原因である、苦痛の叫びと泣き声をあげ、洞窟を『揺らがせ』た精霊たちの存在以外の外界の出来事や風景や状態の認識をする事ができていなかったのかもしれない。だから、蔵馬の存在と言うものが、目覚めたばかりのの意識と認識の中にはきちんと知覚されていなかったのだろうと思われる。
けれど、そうだとしても、自分の存在をまるで無いかのように振舞うの様子と、通常よりも青ざめた顔色に瘴気でどす黒く染まったすらりとした足は、元々かなりぎりぎりのところで理性の糸をつなぎとめていた蔵馬にとって、燃え上がる炎に油‥‥いやガソリンを注ぎ込むのと同じ効果を与えるものとなった。
「」
それでも、今つかえるだけの理性を総動員して、いつも通りな声で名前を呼ぶ。
しかし、彼女は自分の方を振り返りはしない。
「」
2度目の呼びかけ。まだ振り返らない。声に苛立ちの色が混ざりだす。
「」
3度目。苛立ちの色を隠せない声を出した時、ようやく名前の主は自分の方を振り返る。
「蔵馬‥‥」
ようやく振り向いたの目は、驚きで大きく見開かれていた。
「どうして、ここが分かったの?」
問い掛ける声はどこか寂しげだ。
「どうしてだろうね」
投げつけた皮肉に返ってきたのは
「‥‥来て欲しく、無かったのに」
と言う、耳を疑うようなもので。
「ずいぶんな事を言うね。オレに嘘をついて、隠し事をして、おまけにそれだけ身体を傷めて、それでもしなきゃいけない事だったの?」
とげとげしい口調と声。
「貴方に嘘をついた事は悪かったと思ってる。それは謝るわ。だけど、ここの浄化は絶対にやらなきゃいけない事だったの。それは分かって」
言い切った声には悪びれた様子が見られない。
「ふうん。そういう事を言うんだ」
わざと、あいまいな、答えになっていない返事をすると、は表情を曇らせたが、気を取り直したようにまた蔵馬に話し掛ける。
「蔵馬。私からも聞いていい?この子達をこんな目に合わせたのは、誰?もしかして、貴方なの?」
問いただすの声は、わずかに咎めるようなきつい色彩を帯びている。
「そうだ、と言ったら?」
「今すぐにこの子達を放して。傷つけるのを止めて」
蔵馬を見るの目には、子供を守る母親のような色が宿っていた。
「それを、嫌だと言ったらどうなるの?」
「嫌だなんて言わないで頂戴。今すぐに放して。でないとこの子達が死んでしまうわ」
死んでしまう、といっては耐えられないという表情を浮かべた。
「ああやって捕まってるのは、自業自得なんだけどね。それよりも、オレには君にもっと大事な話があるんだけど、それは聞いちゃくれないの?」
「聞くわ。聞くけど、その前に、この子達を放して。早く放して手当しないといけないの。話はそれからよ」
「オレの話よりも大事なの?」
「‥‥今はそうよ。話を聞いて欲しかったら、今すぐ放して。それが貴方の話を聞く条件よ」
きっぱりとした返答には彼女の意志の強さが現れていて。余計に蔵馬を苛つかせた。
「蔵馬。お願い。この子達を放して。ねえ、早く放して」
懇願するような色を一刷毛含んだの言葉を聞いて、蔵馬は薄く笑った。
「そんなに助けたかったら、が自分で助ければどう?」
「蔵馬!どうして‥‥」
驚愕に咎めの色を若干含めた声があがる。
「今のオレは、誰の指図もお願いも聞く気になれないから。それが、君からの指図やお願いだとしてもね」
浮かべている笑顔は酷薄と表現するのが一番適当なもの。
「どうしても、ダメなの?」
懇願の色が更に二刷毛程増えた声で、は再度問い掛ける。
「だから言ってるでしょう。助けたければ、が自分で助ければイイって。オレは手を貸す気は無いけれど、でも、邪魔はしないであげるよ」
述べている内容の冷酷さとは反比例するような、穏やかな口調。だからこそ、その冷酷さはいっそう際立って。返答を聞いたは、目を伏せると、一つ、ため息をついた。
「‥‥そうさせてもらうわ‥‥」
返事をした声の色は鈍くて、重い。くるりと体の向きを変えて、動いている蔦と、絡みつかれて、ぐったりとしている精霊たちに向き合う。
「もうちょっとだけ、待っててね‥‥」
子供をあやしなだめる様な優しげな口調で精霊たちに声をかけると、は口の中で小さく呪文を唱えた。左の手が淡い青真珠色のオーラに包まれる。その手で精霊たちを捕らえて放さない蔵馬の呼び出した蔦に触れた。
「脱水(デビレイト)」
はっきりとした声で一言呟く。手を覆っていたオーラが、蔦全体に移動して広がって、次の瞬間、あれほど生命力たくましく獰猛に動いていた蔦が、見る間に干からびていき、あっという間に枯れ蔦へと姿を変えた。捕らえられていた精霊たちは自分たちを拘束していた蔦から開放されて、とさりと地面に落ちる。精霊たちの全身に、酸で焼かれた酷い火傷と蔦から生えていた刺で出来た傷を認めて、は唇をきゅっとかみ締めると精霊たちのそばに膝をついて座った。
「みんな良くがんばったね。今、傷を治してあげるからね」
話し掛ける言葉は人のものではない。おそらく、本来精霊たちが使っているであろう言語。一連の様子を腕を組み、うっすらと笑みすら浮かべて見ていた蔵馬の顔が、一瞬驚愕の色で染められたかと思うと、見るからに不愉快そうな色に塗り替えられ、が自らの理解し得ない言葉を発しているのを聞いた次の瞬間には組んでいた腕に指が食い込み、関節が白く浮き上がる。おそらく、一人でこの蔦から、精霊たちを助ける事は出来ないと踏んでいたのであろう。だが予想は大きく外れて、は自力で、それも、そう苦労した様子も無く精霊たちを助け出してしまった。その上、自分の理解できない言葉での会話。本来の蔵馬の目論見では、自力で助ける事が出来ずにが弱り果てている所に助け舟を出してやり、彼女が自分に隠れてやっていた事が、いかに身の程知らずで危険な事であったかを思い知らせてやるつもりだったのだろう。ところが、その思惑はいともあっさりと覆されてしまったのに加え、彼女は、蔵馬の理解できない言葉を使い、自分を蚊帳の外に置いて話をしている。面白くないなんてどころの騒ぎではなかった。
「‥‥ごめんね。儀式、途中でやめさせちゃって‥‥」
弱々しい声で謝る水の精霊の少女。
「いいから。ね。喋ると体力使うから、喋っちゃダメ」
優しく、だが、きっぱりと言い聞かせて、は水の精霊の少女を黙らせる。ゆっくりと気を集中して呪文を唱えた。
「左手は鞘。右手は剣。命の源たるものよ。契約に従い、我の望むものに癒しの加護を。疾くその命の如くせよ」
ふわり、とと精霊たちのいる上に、直径数十cmの青真珠色の光を纏った水球が現れた。
「‥‥癒しの雨」
が呪文を完成させると同時に、浮かんだ水球は淡く輝く青真珠の光を纏った霧雨となって、と精霊たちに降り注ぐ。みるみるうちに、3人の精霊たちの全身についていた火傷と傷が癒え、ふさがっていく。霧雨がやむ頃には焼け爛(ただ)れた皮膚も、裂けた傷口も、跡形も無くきれいに、怪我をする以前と何ら変わらぬ状態にまで、精霊たちの身体は治癒されていた。
「はい。おしまい。これでもう大丈夫よ」
笑ったの顔色は、先程よりも更に血の気が引いていた。薔薇の花弁の様、と形容される形の良い唇の色も、今は紅薔薇に例えるには青白味が強すぎる。
「そろそろオレの話を聞いてくれてもいいんじゃないの?」
無情な響きを持った硬質な声が降って来る。その声を聞いて、は小さくため息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。精霊たちもそれに習い、の周りにそれぞれ自分の立ち位置を決める。
「‥‥何から話すの?」
尋ねるの声は、落ち着いている、と形容するよりは沈痛なと表現した方が良い調子のもの。
「何からにしようか?沢山ありすぎて、流石にどれから話したら良いのか、ちょっと迷ってるんだけど」
大量の毒と刺、それに加えて氷点下の冷気を帯びた返答。の方を見る目も、氷点下の冷たさと、眼光を浴びた者は萎縮せずにはいられない、尊大さと重圧を帯びたもの。事実、の周りにいる精霊たちは、その眼光と声に怯えの色を見せて、の傍に寄り付いた。
「とりあえずは、どうしてこんな事しようと思ったのか、それが知りたいね」
先程と同じ口調で投げつけられた言葉。
「一番の理由は、この子達が『泣いて』いたから。それから、ここの霊的な陰陽のバランスが、めちゃくちゃになりかけてたから。入魔洞窟(この場所)は、この地域一帯の霊的な『要』の一つだから、ほっとくと大変な事になるもの」
沈痛な響きはあるものの、の答えは淡々とした冷静なもの。周りの精霊たちが蔵馬の発する重圧感と不機嫌さに怯えの色を隠せないのとは対照的に落ち着いたものだ。
「『要』の霊的なバランスが崩れると、どんな事が起こるか位、貴方だったら当然知ってるでしょう?」
「そりゃ、ね。その位は知ってるさ」
吐き捨てるような口調。こんな口調で話す蔵馬を、は知らない。
「知ってるんなら、解かるでしょう。ここの『浄化』が必要な訳も。霊的陰陽の均衡が崩れた『要』は人間界と他の世界との間に『歪み』を生む可能性が極めて高いって事も、修復されたとは言え、ここが一度魔界との穴が開いたおかげで、他の世界へと続く空間のひずみが出来やすくなってるって事も。一刻も早く霊的なバランスを元に戻さないと、また『穴が開く』のよ。そんな事、ダメだもの」
の言葉に宿る沈痛さは変わらないが、込められた感情の熱が先程よりも高い。
「そうだね。その通りだけど、オレの聞きたい事は、そんな事じゃない」
蔵馬はの言葉をあっさりと切り捨てる。
「オレが聞きたいのは、どうして『が』ここの『浄化』をしなければいけないのかって事だよ。『入魔洞窟(ここ)』がどうして『浄化』しないといけないのかって事じゃない」
硬質な響きの声はが蔵馬の納得のいく答えを言わない限り、何を言っても聞き入れてくれないような色が刷かれていた。
「精霊(この子)たちが泣いていたから。苦しんでいたから、だから‥‥だからほっとけなかったの。さっき聞いたでしょう。この子達の『泣いている』声。あんな声でずっとずっと泣いてたの。穴が開き始めて、魔界の瘴気がここのバランスを崩す程蝕み始めてから、ずっと。あんなに苦しんでるのに、ほっとくなんて、できないよ」
悲しげで辛そうで耐えられないと言った色合いのの声。
「うん。それで?」
続きを促す声は何の感慨も感情も無くて冷たい。
「それに‥‥今回みたいな規模の『浄化』の儀式をやれと言われて、すぐにできるような能力(ちから)のある術者なんて、そうはいないもの。人間の術者だと幻海師範位しか心当たりは無いわ。でも、師範はもうお年だから、身体に負担のかかる儀式をやれなんて、そんな事お願いできないもの」
「だから?」
身を切るような冷たさの返事。
「霊界も『穴』関連のごたごたで、大混乱中ですもの。人間界の事にまで、今はまだ手が回せない状態なの。ぼたんちゃん位ならどさくさにまぎれて人間界(こっち)に送れるんだろうけど、正直ぼたんちゃんじゃ、今回の浄化は無理。多分、バランスの不均衡を食い止めるので精一杯だと思うの。霊界の混乱の状態から察するに、今回の儀式をすぐに取り仕切れるクラスの術者なんて、まだ送れる状態じゃないし、その前に術者(ひと)を送ってくれるのかさえ、はっきり分からないわ」
私が『浄化』を取り仕切れる力量がある事は霊界も知ってるから、術者を送ってこずに私にその話が来る可能性だってあったのよ。そう付け加えて、は一旦言葉を切った。
「‥‥ふぅん。は優しいね。最初はそこの精霊たち、次は幻海師範にぼたん。オレ達には直接関係の無い、霊界の心配までして、次は、誰の事を心配してあげるの?」
ゆっくりと腕を組替えながら、薄く笑いを浮かべて言葉を紡ぐ蔵馬の目が、まったく笑っていない事も、紡がれた言の葉には、字面通りの意味など、かけらさえ込められていない事も、その場にいる者には手に取るように分かった。
「蔵馬‥‥やめて。そんな言い方しないで」
いたたまれない、と言った口調で、は顔をつらそうにゆがめた。
「‥‥オレの事は、何番目?優しい君は何番目にオレの事を心配してくれるの?」
いっそ優しいとも言える口調で蔵馬は言う。
「‥‥‥」
何か言おうとして、言葉が見付からなかったのか、はきゅっと唇を噛み締めた。
「‥‥は悪くないわ。ひどい事言わないでよ」
水の精霊の少女がをかばうつもりなのか、口をはさんだ。
「あれだけ酷い目にあっといて、まだ懲りないんだね」
蔵馬の冷ややかな鞭のような一言と共に、水の精霊の少女に向かって何かが飛ぶ。だが、その『何か』が水の精霊の少女を攻撃する事はなかった。
「蔵馬やめて!」
飛んできた軌道上にが自分の右手を出して、その『何か』をキャッチしたからだ。の手に受け止められたそれは、先程精霊達を拘束した蔦と同じ種類の植物へと一瞬で変わって、の手から手首、肘下の半ば位までの腕をギリギリと締め上げた。血の気の引いた青白い肌から、対照的な色の真っ赤な血がにじみ、細い筋を作り始める。
「‥‥!」
呆然と水の精霊の少女がその光景を見つめる。
「みんな、もういいわ。ありがとう。今までいてくれて。もう大丈夫だから、早く精霊界(自分の世界)に戻って」
自分の右手に起こっている事は、存在していない出来事のような口調では精霊たちに言う。
「でも、、その手‥‥それに‥‥」
「いいから戻って。この位平気だから。大丈夫だから。帰って」
の声は優しいけれど、そのきっぱりと言い切る口調は有無を言わせぬ調子があった。
「だって、あたし達のせいで‥‥」
「戻りなさい」
なおも、残ろうと追いすがる水の精霊の少女にぴしゃりと一言。
「ねえみんな。『お願い』として言ってる内に戻って頂戴。『お願い』の内に戻ってくれないんなら、今度は『名前』を呼ばなくちゃいけなくなるわ」
そう言うと、は一旦言葉を切って精霊たちを見る。
「私も『名前』を使って『命令』なんかしたくないのよ。貴方達だって嫌でしょう。だから、戻りなさい。いいわね」
「‥‥」
「戻りなさい精霊界へ。戻らないんだったら、次はみんなの『名前』を呼ぶ事になるけど、いいわね?」
厳しい響きを伴った声で言われて、ようやく精霊たちは諦めたようにうなだれた。
「、大丈夫だよね?」
今までの実体を伴った姿から、だんだん実体を失っておぼろげな半透明の立体映像じみた姿へと変わっていきながら、水の精霊の少女は心配そうにに尋ねる。
「大丈夫よ。心配しないで。精霊界(向こう)でゆっくりおやすみなさい」
血の気のない、青ざめた白い顔で、それでもは、聖母の様とでも形容出来る様な笑顔を浮かべる。その笑顔を見て、ようやく安心したように、3人の精霊たちの姿はかき消すように気配もろともその場から消えた。 |