癌蛇羅城内の訓練場。いつもなら、男どもの野太い気合と血と汗が飛び散る汗臭くも暑苦しい空間であるはずのそこが、今日は、どこか華やいで、浮き立って、爽やかな空気に包まれていた。ある人物たちの手合わせが行なわれている為に。
「‥‥せぁっ!」
明らかに女性の、それも若い娘の声だと分かる、裂帛の気合を込めた声。
鋭い回し蹴りが相対する相手の側頭部目がけて叩き込まれる。だが、その蹴り足は紙一重で避けられた。
「…もらった!」
今度の声は、中性的な、でも強いて性別を付けるならば、女性のそれだと言えなくもないトーンの声。
一歩大きく踏み込んで掌底突きを回し蹴りを放った娘に入れる。
もらった!と叫んだ女性(多分)が言った通り、その突きは回し蹴りの娘のみぞおちにクリーンヒットした‥‥瞬間、娘は自ら後ろに飛んで、衝撃とダメージを最小限にとどめる。
それでもやはり、先程の突きはかなり効いたのだろう、痛みに顔をしかめ、みぞおちに手を当てながら、大きく数歩踏み込まないと、お互いがお互いの攻撃射程距離に入らない所まで間合いを開いて、掌底突きの女性と睨みあう。
「‥‥すげー‥‥。今の突き、躯、本気でいってるよな。アレ」
「ああ、間違いねえべ、幽助。ありゃ、本気でぶちかましただ」
幽助、と呼ばれた黒髪をリーゼントに整えた少年に、いささか訛りのある独特のしゃべりで応じたのは、鬼の子か雷様の子がハイティーンになったらこんな風に育つんだろうと想像できるような見かけの、ぼさぼさのオレンジの髪と尖った耳をした、良く見ればそれなりに整った容姿の少年。幽助よりは少し背が高い。
「陣、躯は本気じゃないだろう。呪符を張って、スピードと力を、と同クラスまで落としてるんだからな」
「凍矢、そんな事はオレも分かってるべ。でも、あの突きは本気で行ってるべさ。おめえさんも見たら分かるだろ」
陣、と呼ばれたオレンジの髪をした少年に、ぴしりと突っ込んだのは、灰青の髪に、前髪二房だけ青緑な、端正で落ち着いた顔立ちの少年。
陣の言葉が真実ならば、凍矢、と言うのが彼の名前なのだろう。
背は、幽助と同じ位かややそれよりも低め。
手合わせを見守る3人の目の前で、睨みあい、牽制しあっていた『』と呼ばれた回し蹴りの娘‥‥艶やかな栗色の髪をポニーテールにきりりとまとめている‥‥と、『躯』と呼ばれた掌底突きのよりも頭半分は確実に背の高い、金髪に近い明るい亜麻色ショートボブの中性的な雰囲気の女性が、ほぼ同時に動いた。
「せいっ!」
短い気合とともに、躯の正拳がに向かって繰り出される。
その拳に向かっては無防備に一歩踏み込んだ‥‥と思ったら、繰り出されてきた拳の腕、そこの手首辺りに自らの左手を触れさせて、その軌道を僅かに逸らせた。
逸れた拳は当然、の顔の脇を通過する。
その通過した腕を、は触れさせていた左手ではっしと掴んだ。
腕を掴むと同時に、右手で躯の拳を出したのと反対側の肩を掴み、右の足で踏み込んできた躯の足を払う。
あとは、躯が突進してきた勢いと自分の前に倒れこむ勢いを利用して、躯の身体に自分の全体重とその身を乗せ、受身の取れない状態で床に叩きつけるように投げた。
に押さえつけられるように投げられて、受身の取れない躯は後頭部を初めとする背中から腰と言った後半身を訓練場の固い床に激突させる事となる。
「‥‥っぐぁっっ!」
流石の躯も、受身無しで、それも、自分の突進の勢いに加えて、が自らの全体重を乗せた投げを受けてはノーダメージでいる事は不可能だった。
叩きつけられた瞬間、呼吸が一瞬詰まり、肺の空気が苦痛の声と共に吐き出される。
幾らの体重が軽いとしても、子供ではなく、若い娘である以上、体重を身長から推測すると40s以上〜50s前後はあるはずだ。
それだけの重さが躯の突進の勢いと、自らが全体重をかけて倒れこむ勢いを味方につけて、躯の後半身、それも後頭部と背中を中心に叩き込まれたのだ。
実際に躯が受けた衝撃は、本来の体重のおそらく数倍の重さが叩き込まれたのと同等ではないだろうか。
「かっくいいよな〜。流石ちゃんも可愛いけど、もしかしたら、に負けてるかも〜」
幽助よりも更に小柄な、一見小学校高学年か、小柄な中学生位に見える少年が、
やっぱり目をきらきらさせて、手合わせの感想を述べる。
「イイ女だよなあ。‥‥ひっく、強くて美人ってー、俺の好み直球ど真ん中だ」
酒臭い息を吐きながら惚れ惚れと手合わせの感想‥‥と言うよりも、の感想を述べたのは一同の中で一番の長身でたくましい身体をもったモヒカン頭の男。
「酒臭っ。酎。お前、まぁた悪酔いしてるだろ!」
「うるせー鈴駒!酒ぁ命の水だ!美人を目の前にして飲む酒ぁもっと命の水だ!寿命が100年は延びるぜこんちくしょー」
酎、と呼ばれたモヒカンの男は見た目は見物人の中で最年少な少年‥‥鈴駒を怒鳴りつけると、どこに隠し持っていたのか酒の入ってるらしいひょうたんを取り出すと、豪快にぐびぐびとその中身を飲んだ。
酎と鈴駒のかけ合いの間に、と躯、2人とも立ち上がり、今度は立ち技の攻防が始まっている。
拳に手刀、蹴りに突きとあらゆる手技足技が繰り出され、避けたり受けたり相撃ちになったり、軽くヒットしたりと、激しいやり取りが行なわれていた。
美人美人と言われているが、どちらかと言えば『美人系』の顔と言うよりは『可愛い美少女系』のカテゴリに属する容姿のと、焼け爛れずに残っている本来の顔はカテゴリ分けするなら確実に『中性的もしくは男装の麗人な美人系』の範疇に属する容姿の躯と、見た目も対照的な2人の繰り出す攻撃は、その容姿同様、やっぱり対照的で、躯の繰り出す攻撃を剛とするならば、の攻撃は柔と言っても良い、水の流れるようなそれ。
しかも、その動きはどこか華やかで、躯の姿が無ければ、何かの踊りか舞いに見えてもおかしくないだけの華麗さを持っていた。
当然、外野で見ている者達は、その一連の流れるような動きを一瞬たりとも見逃すはずはなくて。
「でも、躯が落としてんの、スピードと力だけだろ。技とか、そーゆーの元のまんまじゃんか。だったら、躯も本気って言ってもいいんじゃねえ?う〜っ。ぞくぞくすんなあ。があんなに強ええなんて、オレ、知らなかったぜ」
目の前で繰り広げられている、女同士の華麗な手合わせを見ながら、幽助は目をきらきらさせている。
「オレも、わくわくしてきただ。耳さ立ってきた」
陣も負けじと目をきらきらさせている。
そうやって外野で見学している5人が固唾を飲んで二人の攻防を追う事に没頭していた、その最中。
「‥‥‥ようやく見つけましたよ。こんなところで、皆さん油売ってたんですね」
唐突に、硬質な、だが表面的には愛想を失っていない、慇懃無礼な声が見学者達の背後から降って来た。
その声を耳にした、手合わせを見ていた5人全員の背中に冷たい汗が流れる。
「‥‥よ、よう‥蔵馬‥‥」
引きつった笑いを浮かべながら、それでも幽助は慇懃無礼な声の主――蔵馬へと返事を返した。
「パトロールの報告書も、城下の復旧工事の報告日誌も上がってこないし、遠方治安警備の引継ぎと報告レポートもまだこない。事務方はみんな泣いてますよ。やる事は沢山あるのに、書類が提出されないおかげで作業がストップしてしまってね」
一言ごとにぐるぐると5人を見回して、蔵馬はゆっくりと腕を組んだ。
蔵馬の視線が自分に向けられるたびに、5人の顔が引きつったのは、おそらく、過去にも同じ様な事をやって、蔵馬から課せられたペナルティで、何か思いっきり嫌な目か大変な目にあったのだろうと、そう推測される。
「あの、あのな、蔵馬、みんな、ちゃんとやる気でいたんだ。遅れてるのも、分かってたからよ。だけどさ‥‥」
そう言って、幽助は、自分より、頭一つ強は高い蔵馬の顔をちらりと見上げた。
「あれ、あれ見ろよ。あんなすげえもん見せられたら、オレら、終わるまで気になって仕事できねー」
そう言って、幽助は、訓練場で行われている、女同士の華麗な手合わせを指差した。先程から続いている攻防は、どうやら、躯の方がやや押し気味になっているようだ。
「‥‥そんなのが、仕事をサボる理由になると思うの?」
幽助が指し示したそれを、ちらりと一瞥して蔵馬は冷たく言い放った。
「頼む。この手合わせが終わるまでは、それまでは、どーか勘弁して下さい。南野センセーお願いします!!」
幽助はそう言って手を合わせて、蔵馬を拝む様に頭を下げた。その時だった。
「きゃぁぁぁぁっ!!」
甲高い悲鳴が訓練場の空気を引き裂いた。次の瞬間、壁に何かがぶつかる大きな音が。
外野+蔵馬の視線が激突音のした方向へと集中する。
「‥‥‥っ痛たたたた‥‥‥」
視線の集中した先には、壁際に後頭部を抑えてうずくまるがいた。
彼女がぶつかったであろう壁は、衝撃で円形にわずかにへこみ、そのへこみを中心にして若干の亀裂が生じている。
が壁に叩き付けられた時の衝撃がどれ程のものであったかは、壁に走る亀裂を見るだけで、容易に想像できた。
だが、受けた衝撃とは反比例するかのように、に目立った外傷は見られない。
おそらく、自らのまとう霊気が防御壁になって激突時のダメージを相当軽減しているのであろうが、推測値で大型トラックに跳ね飛ばされるのと変わらない位の衝撃を受けて、頭を抱えて痛がってるだけで済んでいるんだから、やっぱりは『只者』じゃあなかった。
「隙だらけだな。もう、これじゃチェックメイトか」
頭を抱えてうずくまっているの背後に、いつの間に移動したのか、躯が立っていて、手刀を構えていた。
「‥‥くやしーけど、そーですね。参りました」
まだ取れない後頭部の痛みをもてあましながら、は悔しそうに自らの負けを認めた。
頭を抑えている手から淡い青真珠色をした光が放たれて、ようやく痛みに歪んだ顔が落ち着いたものになる。どうやら治癒の術でもかけているらしい。
「これで、0勝35敗3引き分けですよ。やっぱり躯さん強すぎ。全然勝てないもん」
躯を下から見上げながら、はちょっとふてくされた様に言う。
「こっちがどれだけテクニックと作戦を重視で向かって行っても、躯さんの方が力では全然勝ってるから、結局最後はこっちが力押しでやられちゃうんだもの。呪符張ってもらってこれじゃあ、呪符無しだと、もう全然勝負になりませんよね」
まだ、負けたことが悔しいのか、ぶつぶつ言いながら、汗を手でぬぐう。
「そんな事は無いぞ。さっきの投げは、正直かなり効いた。まだちょっと背中が痛いしな。ああ言う芸当ができるんだから、、お前もたいしたもんだよ。人間にしておくのは、本当にもったいない」
そう言って、躯は手にしたタオルの片方をに向かって放る。
「あ、ありがとうございます」
受け取ったタオルで流れる汗を拭きながら、ようやくは立ち上がった。
そのに、今まで外野にいた彼女の最愛の人から声がかかる。
「」
「あ、蔵馬。どうして訓練場(こんな所)にいるの?お仕事は?」
本来なら仕事に没頭しているであろう想い人の姿に、の目が丸くなる。
「ここにいる約5名の職務怠慢を諌(いさ)めにね」
ちらりと本来の外野5名を一瞥すると、5人は一斉に肩をすくめた。
「ふぅん。そうなんだ。ところで、今日は早く帰れそうなの?」
「多分。今は事務方の作業は半分近くストップしてるから、何も無ければ、今日は早上がりしても大丈夫そうだし」
の問いに返事をすると、蔵馬は一旦言葉を切った。
どこから取り出したのやら、喉渇いてるでしょと、ミネラルウォーターの700mlボトルを彼女に手渡す。
「ところで。君も今日の手合わせはそろそろ終わりにしない?もう十分でしょう。あれだけ派手にやったんなら」
そう言うと、蔵馬は、先程が躯に吹っ飛ばされてこしらえた壁の亀裂を示す。
「そろそろ疲れてるでしょ。部屋に帰ってお昼寝でもしたら?その方が、オレも安心だし」
「う‥ん。でもね。蔵馬。後、一回だけ。一回だけやらせて。さっきので、なんとなくだけど、躯さんに勝てそうな何かがわかったような気がするから、ちょっとそれ試してみたいの。ね。お願い」
蔵馬が先程手渡した水を飲むのを止め、口元で、可愛らしく手を合わせて、はねだる。
「そしたら、今日は、もう部屋に大人しく帰る。ね。いいでしょ?」
「いいじゃないか。キツネ。目の中に入れても痛くない程可愛い彼女からのお願いだろう。聞いてやれよ」
否や応やをなかなか言わない蔵馬にじれたのか、それとも単に事態を面白がっているだけなのか、躯が援護射撃を加えた。
「目の中に入れても痛くないから、聞きたくないんですが」
冷ややかな切り返し。
「ねえ。聞いてくれたら明日の朝ご飯は、私がちゃんと早起きして作るから。だからお願い。ね」
重ねても蔵馬を拝み倒す。こう言う風に、蔵馬に何かおねだりする時のは、本人が意識的にやってるのか無意識なのかは、定かではないけれど、いつもの勝気なわがまま姫様モードとはうって変わって、やけに可愛らしく、従順で素直そうに見えるから、蔵馬もその可愛らしい顔が、更に満開の笑顔で彩られるのを見たくなって、ついつい甘くなる。
「‥‥結果に関係なく、『後一度だけ』だよ。イイ?」
「うん」
「次負けて、悔しいからもう一度やらせてって言っても、絶対許さないよ」
「…うん」
「さっきあれだけ派手な事したんだから、無茶したらダメだよ。したら止めるからね」
「ぇ‥‥はぁい」
「それじゃ、最後の一回、やっておいで」
「わぁい、蔵馬ありがと〜♪」
蔵馬から念を押されるたびにの返事の間隔は開いて歯切れの悪いものになるが、それでも、最後のありがとうを言った時の顔は、やっぱり満開の笑顔で。
蔵馬が自分を曲げて妥協した分の埋め合わせには十分だった。
「躯さん、ラスト一回の前に、ちょっとだけ休憩入れません?」
水を飲みながらは提案する。
「このままだと暑いし、汗吸いすぎて、うっとおしいんですよね。これ。上のシャツ着替えて来たいから、ちょっと時間下さいな」
そう言うと、は自分の着ている腰まですっぽり覆う長さのゆったりした白いTシャツ、その胸元の辺りを軽く引っ張った。
確かに彼女の言う通り、汗で全体的にしっとりと湿っているそれは、生地が厚手の為、シャツの下が透けるのだけは何とかぎりぎりで回避していて、約一名の胸を密かになでおろさせていたが、彼女のウエストや肩や腕、背中などにぴったり張り付き、身体のラインをなぞるかの様に浮き出させていて、先程の様な激しい動きをするには邪魔になりそうだった。
「それは構わんが、やるなら早くしてこいよ。せっかく『許可』が降りたんだ。キツネの気が変わらない内にさっさと始めたいからな」
躯はそう言ってにやりと笑った。
「ええ、汗拭いて着替えたら、すぐ戻ってきますよ。ホントはシャワー浴びたいですけど、そこまで暇をくれたりはしないでしょ?」
は、躯へといたずらっぽく笑うと、ボトルと先程躯からもらったタオルを手にして、更衣室へと歩もうとした。その背中に、躯が一言声をかける。
「おい。その水もらえるか。オレも喉が乾いた」
「いいですよ〜。じゃ、受け取って下さいっ!」
最後の一口と、はボトルに口をつけて、大きく一口水を飲み干すと、躯へと向かってそのボトルを投げた。中身が半分ほどになったそれは、放物線を描いて、躯の手で受け止められる。
「すまないな」
受け取った躯は遠慮なくその水を飲み始めた。
当然、ボトルから直に口をつけて。はその様子を確認もしないで、いそいそと着替えに向かう。
おかげで、彼女は、今の自分の行動が、約一名の目にどう言う風に映っていたのかという事も、
今自分が取った行動が未来の自分に対してどんな影響を与えるのか、と言う事も
その片鱗すら知ることは出来なかった。
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