「躯さーん。お待たせしましたっ♪」
着替えを終えて戻ってきたに、またしても、一同の視線が集中する。
「‥‥ラッキー♪」
ぼそりとつぶやいたのは一体誰だったのか。
の格好は、先程までの腰まで覆うゆったりしたTシャツと脇に白ラインの入ったナイロン素材の黒イージーパンツと言った姿ではなく、グレーのハーフトップに下は先程と同じイージーパンツと言った、エアロビのインストラクターかダンサーが好みそうな姿。それもTシャツに隠れていたせいで、着替える前には分からなかったのだが、パンツは腰履きのローライズタイプのものだ。
きゅっとくびれたウエストと、形の良いお臍を惜しげもなく晒し、ご丁寧にもローライズからはパンツと同色の黒い、だがパンツの生地とは明らかに違う素材の布がちらりと見えていると言う、先程の格好とは明らかに反比例した露出度のものだった。
最も、グラビアアイドルの様な極端な凹凸が無く、出る所と引っ込む所の均整が取れた、バランスのいい体型と、なにより着ている人間本人の性格のおかげで、『セクシー』という形容詞より『健康美にあふれた』という形容詞の方がふさわしい。
「ざーんねんでした。ローライズだけど、下に見えてるのは下着じゃないですよーだ」
先程のつぶやきが耳に入ったのか、外野に向かっては言った。
「下のはスパッツだから喜ぶだけ無駄だからね〜♪見えるの分かっててガード無しなんて馬鹿なマネはしないも〜ん(笑)」
きゃらきゃらと笑いながら更に付け加える。そのちょっぴり挑発的なセリフが、約一名の気分を著しく害している事を、は知らない。
「それじゃ、躯さん、始めましょうか」
「ああ」
お互いがそう言うと同時に、今までの和やかな雰囲気は一変して、の顔も、躯の顔も獲物を狙う猛獣のそれとよく似たものに変わる。
「「‥‥!」」
無言の気合と共に同時に二人は殆ど同時に動いた。躯の放った拳と、の繰り出した掌打が激突する。
お互いがお互いの攻撃を相殺したのと同時に、は躯の懐へ更に一歩踏み込んで右の膝蹴りを、躯はその膝目掛けて空いている方の肘を叩き込んで、それを迎え撃つ。最初の拳と掌打同様、膝蹴りと肘打ちも相討ちになった。
「‥‥っ!」
自分の出した膝が相討ちになったのを確認すると、が短い気合の吐息とともに今度は裏拳を躯の頭部めがけて叩き込んだ。三度目の正直と言うべきだろうか、クリーンヒットとまでは行かないが、の拳は浅く目的の場所にヒットする。
ヒットした次の瞬間、お返しとばかりに今度は躯の放ったキックがの太ももめがけて襲い掛かった。足と足がぶつかる派手な音が響く。
だが、頭部に裏拳がヒットした直後の不安定な姿勢で放ったそれは、万全の体制で放ったものよりは明らかに威力が低い。目的の場所に当たった音が派手な割りには、あまり本人にはダメージが行っていない様だ。
「せいっ!!」
お返しとばかりにの中段蹴りが躯の胴体めがけて蹴りつけられた。
その蹴りを躯は一歩下がって避けると、その蹴り足を掴む。
足を掴まれたは、掴まれた足を動かして、その手を振り解こうとする。
その時に出来たわずかな隙を躯は見逃さなかった。
「‥‥ふっ」
薄く笑うと、躯はの足を両手でがっちりとホールドして、その姿勢のまま、勢いよく自分の身体を回転させながら床に寝転ぶように倒れ込んだ。
その勢いに引っ張られて、の身体も、掴まれている足のちょうど膝の部分を軸にして、くるりと回る‥‥もとい、床に叩き付けられる。
「‥‥っぁぐぅっ‥‥!」
回転軸になった膝に鋭い痛みが走った。間髪入れずに床に叩き付けられた衝撃と痛みが全身に走って、思わずの喉から苦痛のうめきが上がる。
かろうじて顔面と床が激突する事だけは防いだが、顔を守った代償に、他の部分の受身は殆ど取れていない。
ほぼうつぶせな状態で叩き付けられたおかげで、腹部と胸を強打して、呼吸も乱れる。
それでも苦痛に耐えて跳ね起きようとした瞬間、背後から気配を感じた。
躯が何かする気だ、と気がついて、は慌ててその場から逃れる為に床を転がろうとしたが、わずかに遅かった。
右の手が躯の手に捕まって彼女の脇に抱え込まれる。
手首の間接を決められて、背中に躯の身体が乗ってきた。
50sを下るわけが無いだろう躯の体重がずしりとの背中にかけられて、この時点での自由は封じられる。そのまま間接を決められた右の腕が肩の関節と逆方向に締め上げられた。
「‥‥っ痛、ぁああっ‥‥!」
床に叩き付けられたダメージから完全に回復していない状態で与えられた更なるダメージと痛みに、反射的に悲鳴が喉から上がった。痛みにの顔が歪む。
「ぅぅ…っくぅ…ぁ‥‥」
押さえつけ、肩を締め上げる躯から逃れようと、は釣り上げられた若鮎の様にしなやかな身体をもがかせた。だが、多少もがいたところで、がっちり決まった締め技がそうそう簡単に外れるわけも無くて。逆にぎりぎりと右の腕と肩の関節が痛めつけられる。
苦痛の声を漏らしながら、それでも、は何とか逃れようと更に身をくねらせる。
その姿は、痛みに堪えて頑張るけなげな美少女、と言った構図であり、実際その通りなのだが、どこか艶めかしい、見た者の心臓をどきりと跳ねさせるもので。
「「「「「‥‥‥」」」」」
見物していた外野5人の喉がごくりと鳴った。
「かなり効いてそうだな。降参するなら今のうちだぞ?」
「い‥‥や‥‥で‥‥すぅぅっ‥‥!」
上に乗って肩を締める躯が楽しそうに降伏勧告を出す。が、は途切れ途切れだが、即座にNO!の意志を告げると、躯から逃れようと手足をばたつかせ、身をよじった。
「‥‥うわ‥‥」
幽助の喉から、無意識の内だろう呟きがもれた。それは紛れも無い感嘆の声。だが、その声には今までのと躯の技量の高さに対するものだけではない、何か別の色がわずかに混ぜられている。
そのわずかに混ざった別の色の正体が何であるかに気が付いて、蔵馬は一瞬その柳眉を跳ね上げると、誰にも気が付かれない様に、一つ小さな深呼吸をした。声を発した幽助本人も自分の声にどんな色が含まれてるかなんて多分気が付いちゃいない。きっと気がついているのは自分だけだ。
「‥‥っ…くぅん‥‥あ‥‥」
腕と肩の痛みに耐えるの唇から漏れる苦痛のうめき。その声は紛れも無く苦痛に苦しむものであり、顔に浮かぶ表情も苦痛に苦しむもの。
だがその表情も声も、今の所世界で唯一人が見知る事を許されたそれらに酷似していて、見物人達に不穏な波風を吹き付けてかき回した。特に、蔵馬へと。
「頑張るのも、その位にしたらどうだ?これ以上締め上げると、肩が抜けるかも知れんぞ」
一応心配はしているのだろう、躯は再度に向かって降伏勧告を出す。
だがは自分の意思で意のままに動かせる数少ない箇所な首を左右に振って拒絶の意志を伝えた。
「‥‥キツネがヒドイ顔してるぞ。そろそろキツネの為に諦めてやる気は無いか?」
重ねて躯はに降伏の意志を尋ねる。
先程‥‥に脇固めを決めた辺りから、一見そうとは知れぬ様に猛毒が仕込まれている絶対零度の視線を蔵馬からひっきりなしに浴びさせられていて、いい加減うっとおしくなってきたのだ。
『キツネ』と言う、躯独特の蔵馬の事を指す人称代名詞を聞いて、は痛みに顔をしかめながらも、視線を蔵馬の方へとおどらせた。
確かに、あの顔と目は内側で面白くないとかマイナスの評価や感情を持っていて、なおかつ、穏便にそれを表現する必要がある時に彼がよく使う表情だ。
上手い具合に本音を押し殺して一見人当たり良さ気な表情を浮かべているけれど、目の奥に冷たい氷で出来た刺がしっかりと宿っている。
今みたいな膠着状態のまま手合わせを長引かせると、間近の未来でこの顔が『生き人形』もしくは『生きたビスクドール』と表現できるそれへと変わるはずだ。
そう言う顔は蔵馬が『本気モード』で気分を害している‥‥もっと言うならば本気で怒っていると言う徴(しるし)。
そんな顔になる前に決着を付けねば、後で何を言われるかたまったもんじゃない。と躯、二人の思惑は期せずしてかちりとかみ合った。
だが、その双方とも『自分が今すぐに負けを認めて終わらせる』という選択肢は最初から、存在すらないもので。
「いい加減にギブアップしろよ」
「い‥‥や‥‥で‥‥すっっ!!」
また、不毛なやり取りが始まってしまう。躯に再度のNOを突きつけた後で、は蔵馬に視線を合わせて叫んだ。
「ごめんなさい!蔵馬。ちょっとだけ…無茶、しちゃうねっ!」
唐突に叫ばれて、流石に蔵馬も反応が一瞬遅れる。
「‥‥!さっきオレが言った事忘れたの?」
そう切り返してみるが、もう心は決めているのだろう。切り返されたにひるむ様子は今のところ見られない。
「お説教なら、後でまとめてゆっくり聞くから…、お願い許して!本当に、ちょっとだけだから」
肩の痛みに顔をゆがめながら、は重ねてそう叫ぶ。これだけ彼女が念を押していると言う事は『止めてもやるから止めるだけ無駄』と言外に言ってる様なものだ。
今蔵馬がだめだと言っても、このわがまま姫様は聞き入れやしないだろう。お説教は聞く、と言っている辺り、ちょっとは罪悪感もある様だが、だからと言って止める気はあの様子じゃ全く無い様だし。ある程度は蔵馬の不興をかう事を承知の上での発言だろうし。
まあ、いい。後で何が起きても、それはのそれこそ『自己責任』だ。いささか投げやりな気持ちになりつつも、蔵馬は口を開いた。
「‥‥しょうがないね。後でお説教はたっぷりするから、そのつもりでね」
その言葉を聞いたの顔が痛みを堪えつつもぱっと明るくなる。
「ありがと〜!」
一言叫ぶと、は信じられない行動に出た。
締め上げられている右の肩に、無事な左の手を添えて掴み、そのまま手に力を入れる。締め上げられて悲鳴を上げている右の肩から、ごきりと言う鈍くて嫌な音が上がった。
「?!」
右肩を締め上げている躯の顔に驚愕が走る。抱え込んでいるの右手がくたりと力を失っていた。
思わず躯の手の力が緩んでしまったのを、そして、右腕が力を失ったがゆえに躯の手と自分の腕の間に隙間が出来た事を、は見逃さない。全身の力をこめて、躯の身体を押しのけ、右腕と我が身を解放した。そのままごろごろと床を転がって距離をとると立ち上がる。
立ち上がったの右腕は、そこだけ骨が抜かれたかの様に力なくだらりとぶら下がって、いた。
そう。彼女は右肩の間接を自ら外す事で自由の身になったのだ。
「見上げた根性だな‥‥。手合わせで肩を外すか」
半ばあきれたような躯の言葉。
「だって、せっかく勝てるチャンスがあるのに、ギブアップなんて‥‥ねぇ(笑)」
薄く笑ってそう言うと、は、左手でもう一度右肩を掴むと、外した時と同じ、ごきりと言う鈍く嫌な音を立てて外した肩をはめなおす。
当てたままの左手から、青真珠色のきらきらした光。無理やり関節を外した損傷と痛みを癒しているのだろう。
が完全な戦闘体勢に入っていない為に隙ができているから、今攻撃に入ろうと思えばできなくもないのだが、肩を外して締め技から逃れるという予想外の行動を取られたがゆえに、この体勢から予期せぬ反撃を食らう可能性も否定できず、躯は踏み込むのをためらっていた。
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