「あれ?躯さん、来ないんですか?」
傷を治していた、時間にして1分足らずの間の後、はそう言って、笑った。
「‥‥こないなら、こっちから行きますよっ!」
言ったと同時にの姿が躯の視界からふっと消えた。姿を見失い、一瞬思考に隙間が出来る。その時。
自分の足元から殺気が立ち上った。
殺気に気づくと同時に動いたと思ったのだが、わずかな間起こった思考の隙間は躯が思った以上のタイムロスだった。
近づいてくる殺気の塊をサイドにステップを踏んでよけた、はずなのに、バランスを崩して床に向かって倒れ始めていた。
が低い姿勢から、自分の両足を狙ってタックルを仕掛けてきたのだと気がついた時には、先程の手合わせ で投げられた時と同じように後半身を床に叩きつけていた。
投げられた時ほどの衝撃はないが、受身がきちんと取れていない為に、結構なダメージを貰ってしまう。
それでも、躯は床を転がって、の攻撃射程圏内から逃れようとした。
だが、の方も、せっかく倒した躯をおいそれと逃がしてはくれず、グランドでの主導権をめぐる攻防が起こる。
床の上をごろごろと転がりながら行われた、取っ組み合ってのつかみ合いに近いそれを制したのは、今度はの方。
「さっきのお返し、させてもらいますからね!」
うつぶせになった躯の身体に反対側にまたがると、片足を捕らえて抱え込み、足首の間接を決めて、その抱え込んだ足を反らす。抱え込まれた足と、足によって反らされた腰が悲鳴をあげて躯に苦痛を与えた。
「ギブアップするなら、早目がいいですよ?私、容赦しませんから」
言って来るの言葉には、嘘は無い様で、遠慮なく反らされる腰と足から痛みがびりびりと伝わってくる。
振りほどこうと躯も身をよじるが、一度がっちりと決められた足をそうそう簡単にはも離そうとはしない。
逆に、ぎゅっと抱き枕の様に足を抱え込むと、その背を反らした。
背筋をピンと伸ばしている状態でもかなりの激痛が走るのに、背中を反らせた事により、腰と足に更なる負荷がかかり、痛みが走る。
「そろそろ股関節外れてもおかしくないですけど?それまで頑張る気ですか?」
言っては更にその背を反らした。柳の枝の様にしなやかなその身体は、見かけ通りの柔軟性を発揮して、ポニーテールの毛先が躯の肩甲骨に触れる程、曲げられた。
ぎしぎしと関節がきしみ、今にも外れてしまうのでは、と思える痛みが躯を苦しめる。
だが、そんな中でも、躯は抵抗を諦めてはいない。肩口に触れては離れるの髪を後ろ手に捉えた。
「‥‥‥っ痛っ!」
髪をつかまれたの口から、声があがる。掴んだ手をぐいっと引っ張って、自分からの身体を反らせ、固定した。
髪を掴んでいない方の手で、後ろは見えないので、カンで大体この辺りだろうと言う所に肘を入れる。手ごたえが伝わって、その肘はのわき腹と背中の境目辺りに突き刺さった。
ノーガードでまともに入った攻撃に、の顔もゆがむ。だが、躯の足を抱え込む手は離れないし、離そうともしない。
しかし、そんな事は躯の方とて百も承知だ。2度、3度と肘を打ち付ける。が、やはりは痛みにうめき声をあげながらも足はがっちりと抱え込んで離さない。
それどころか、極めている足首を更にひねってお返しとばかりに躯を痛めつける。
4度目に肘を入れた時、ようやく抱き枕よろしく躯の足を抱きしめていたの腕の力がゆるんだ。
その隙を見逃さずに、躯は痛めつけられていた足と腰が悲鳴をあげるのを無視して、背筋と全身のばねを使って背中に乗っているを振り落とした。
立ち上がろうとした躯の目と蔵馬の目が偶然合う。その瞬間、躯は喉の辺りに嫌なむかつきを感じた。
視線が交錯したその一瞬を見逃さずに、蔵馬が視線に殺傷能力があるのならば、躯を5回は即死させているような毒のこもった絶対零度の目を向けてきたからだ。
しかも、そんな目をしたのは、躯と目が合ったその一瞬だけで、もう次の瞬間には、表面上は穏やかな人当たりの良さ気な目に変わっている。もっともその奥に潜んでいる氷の刺だけは隠して無かったけれど。
きっと周りの人間は、蔵馬がそんな物騒な目を自分に向けた事すら気付いてはいるまい。それほど瞬時の間の出来事だったのだ。
まぁ、そんな目を向けられたからといって、後で蔵馬から殺される危険性なんてモノは感じちゃいないが、だからと言って、自分が後々何の被害も被(こうむ)らずにぬくぬくとしていられるなんておめでたい事も考えちゃいない。
これ以上決着をつけずに延々と長引かせると、精神衛生上、非常に良くない事が起こりそうな予感をひしひしと感じさせる、そんな目だったのだ。
さっさと終わらせてやる。そう躯は決心した。服の内側に貼り付けていた、能力(ちから)封じの呪符を一枚、には分からないようにしてこっそりと破り捨てる。
ハンデ無しだと自分の秒殺で決着がつくので面白くも何とも無いから、と互角の勝負をする為に貼り付けていたものだが、今は秒殺で決着させないと、自分の平穏な生活が危ない。平穏な生活さえ維持できれば、多分いつでも手合わせはできる。
お互い立ち上がって、また、最初と同じ体勢同じ距離で向き合った。と躯、二人とも、相手に攻撃する隙を見つけようとにらみ合いを始める。
こう言う時のにらみ合いで不用意に動くと言う事は、致命的な隙となり、相手に攻撃のチャンスを与えてしまうのだ。
だが、秒殺の決心をすでに固めている躯は、を誘い込むために、わざとほんのわずかだけ足を前に踏み込んだ。
当然、は、その『不用意な一歩』を見逃さずに、瞬速の速さで、一撃を加えるべく躯の懐に飛び込む。
しかしその時、躯の姿は煙のように消えていた。
が驚愕の表情を浮かべかけた直後、いつ現れたのか、の懐深くに躯の姿が現れる。
が驚きの顔を作り終えた時には、既に躯の拳が彼女のみぞおちに深々と突き刺さっていた。
驚いた顔のまま、の身体が弛緩して、くたりと躯へ向かって倒れこむ。
まさに秒殺。あれほど激しい攻防が行われ、いつ終わるとも知れぬ手合わせが続いていたのに、勝負は一瞬で決まっていた。
「‥‥‥ふぅ‥‥」
背中に突き刺さる視線が、気持ち柔らかくなったのを感じて、躯は小さくため息をついた。
身体能力を五分の条件で、と言う約束でやっていた手合わせだったのだが、結果的に、その条件を破った上に、卑怯な手を使って、こっちが勝ってしまった。
おそらく、長い人生で始めての『お友達』(最もキツネに言わすと『知り合い』な訳だが)に対して、卑怯な手段を使った事については、流石に良心が痛むし、後でに何か言われそうだが、納得してもらえるだけの大義名分は、さっきのキツネの目の事を話せば十二分に足りる。
きっとだってあの目の犠牲になった事が一回位あってもおかしくないし。
「‥‥‥っぅっ‥‥」
当て身を食らって、わずかな間、意識を飛ばしていたの口から、かすかにうめき声が漏れた。
「‥‥躯さん‥‥今の、絶対、リミッター解除、してるでしょ?」
「すまん。お互いの平和の為にそうせざるをえなかった」
ささやき声で謝罪した。幸い、がぐったりと躯にもたれかかる態勢になってるせいで、内緒話はきわめてしやすい。
「キツネが、俺の事、殺意剥き出しな目でずっとにらむしな」
「‥‥だったら、しょうがないですね。多分、肩外した時点で、内心キレかけてると思いますから」
もささやき返す。
「キレかけてるか‥‥どれだけ暴れるかな。ヤツは」
「さぁ‥‥でも、躯さんには、できるだけ被害が行かない様に、何とかします(汗)」
「大変だな」
苦笑しかけて、慌ててかみ殺した。まだ、は自分以外の目から見たら、『気を失ってる』事になっているからだ。
「しょうがないです。基本的に理想の彼氏ですから、これ位は可愛い欠点だと思わないと(苦笑)」
「可愛い、か。本当にそう思ってるのか?」
「そう思わないと、身が持ちません。本気で喧嘩すると、怪獣大決戦ですし。じゃ、防波堤になってきますから。骨
は拾ってくださいね」
そうささやいて、はさも、今気がつきましたと言うように、大きくうめき声を上げて、ゆっくりと躯から、自分の身体を引き剥がした。


                             ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※


「‥‥キツネ‥‥何しにきた」
手合わせの翌日、自分の執務室で、どうしても逃げ切れなかった書類整理をいやいや行っていた躯は、書類の束を片手に現れた蔵馬の姿に、嫌そうな顔を隠そうともせずに言った。
「何って、貴女に書類を届けに来たんですが。後、今日中に貴女の決済が必要な書類を受け取りに」
躯とは対照的な溌剌とした機嫌の良い顔で、蔵馬は答える。
「今日が期限の書類なら、そこに置いている。届け物を置いたら、それを持ってさっさと出て行けよ」
お前のツラ見てると、仕事する気も失せる、と付け加えて躯は犬を追い払うように、蔵馬に向かって手を振った。
「そうもいきません。今届けた書類の中にも、今日中に決済が必要なものがあるんです。それを貰うまでは、帰れませんねぇ」
蔵馬の言葉を聞いた躯の顔が、更に不愉快そうにゆがむ。
「今日が決済期限な書類は、一番上の赤いクリップでまとめてる束だけですから、さっさとやって下さい。量は二桁に足突っこんだ位ですから、すぐ済みますよね?」
今処理してる書類は、明後日が期限でしょう?と付け加えて、招かざる客は居座る気満々で、勧められてもいないのに執務室の来客用ソファに腰を下ろした。
「で、待ってる人間にお茶の一杯も出さないんですか?ここは?」
そうするのが当然とでも言うような口調でイヤミを口にする。
「‥‥招かざる客に出す茶は無い」
昔の俺なら殺してるぞ畜生と胸の内で呟きながら、躯は押し殺した声で蔵馬のイヤミを切り返した。そのまま、蔵馬が持ってきた書類の束の内、『今日が決済期限』な書類を手に取る。とっとと終わらせて蔵馬を追い出さない事には、心の平穏が保てそうに無かった。
「そんなに嫌われるなんて、心外ですねぇ」
「キツネ、口にガムテープでも貼ってろ。お前がうるさいから気が散ってかなわん」
まだ何か言いたそうだった蔵馬をその一言で黙らせる。そして、口を出すのを止めた代わりに、まだ終わらないんですか?とでも言いたげな視線をちらちらと向けて来る事にした蔵馬を、脳内でぐうの音も出ない程ぼこぼこにして憂さを晴らしながら、書類と取っ組み合うことしばし。ようやく、最後の一枚にペンを入れ、『決済済み』の印を押し、躯は不機嫌の化身と化した声で言った。
「‥‥終わったぞ。キツネ」
「ご苦労様でした。大変だったでしょう」
さわやかでにこやかな笑顔を浮かべる蔵馬を見て、一瞬本当にぶん殴ろうかと思ったのは秘密だ。
「‥‥やけに機嫌が良いな」
「そりゃもう。普段サボってばかりいる人達がみんなきりきり真面目に働いてくれてますから」
蔵馬の返事に、躯は、蔵馬の犠牲者が自分だけではないという事を確認して、ひそかに溜飲を下げた。ざまあみろ。俺だけがキツネにいびられてたまるか。
「それだけじゃないだろう。どうせ」
「まあ。そうとも言えなくもないですが」
くすくす笑いを浮かべての返答に、『防波堤』が、被害を軽減しようと決死の努力を行った事が察せられて、躯はこの場にいない栗色ポニーテールの娘を胸の内で手を合わせて拝んだ。
「あ、そうだ。貴女にもう一つ渡すものがあったの忘れてました」
さも、今思い出したかのように蔵馬は言うと、躯の目の前にぽんと一枚のカードを投げ出した。
「‥‥何だこれは」
「オレの部屋のキーですよ。ビジター用だから、今日一日しか使えませんけど」
一日しか使えない、と言う辺りを妙に強調しつつ、躯のお株を奪うチェシャ猫スマイルで蔵馬は躯の疑問に答える。
「真面目に仕事をした貴女への、オレからの感謝の印です。が部屋で退屈してるから、遊んでやって下さい」
普段の過保護振りとはうって変わった態度に、躯は不審げな目を向けつつぼそりと言った。
「珍しい事もあるもんだ。明日は雪だな。それも吹雪きそうだ」
「貴女がと『お友達』になった事に比べるとたいした椿事じゃないですよ」
殴る代わりに発したイヤミも、更なるイヤミで返されて、一二本細い線がぷつんといきそうになる。
「‥‥そうか。そんなに珍しいか。キツネ、お前は書類を持ってとっとと帰れ。俺はお前が仕事してる間、お前の可愛い彼女とよろしくやっとくからな」
じゃ、これは頂いて帰ります。と書類の束を持って帰る蔵馬の背に、精一杯のイヤミを投げつける。どこまでダメー
ジを与えてるかは定かでは無いけれど。
そして、蔵馬の姿がドアの向こうに見えなくなると、傍らに控えていた部下に言った。
「おい。塩持ってこい。塩!俺は今から出かける。キツネが二度と来ないように、念入りにまいておけよ!」