山を下ったと蔵馬、そして幻海が遺体の発見現場である廃ビルに到着した頃には、予想通り、警察関係者が捜査を開始しており、それだけではなく、報道陣や、ニュースを見て押しかけたのだろう野次馬が大勢、現場を十重二十重に囲んでいた。当然、ビルの周辺には、押し寄せた野次馬を締め出す為に、立ち入り禁止を示す黄色いテープがぐるりと張り巡らせてある。
「うわぁ、これじゃとても近づけそうにないわ」
「警察と報道はともかく、これだけ野次馬がいるとはねぇ‥‥」
蔵馬と、二人がそう言った、その時。どこからか、女の歌声が聞こえてきた。
極上の蜜のような蕩ける甘さと、岩清水の様な透明感を併せ持つ高い声。
その美声が紡ぐのは、郷愁を誘うどこか懐かしいような、もの哀しい旋律。
音楽の心得が無い素人でも、歌い手の技量とその声の天性の美しさが瞬時に理解できるそれは、まさしく『天女の歌声』とでも表現したくなる素晴らしさだった。
なんて・・・美しい歌声・・・。『天女の歌声』をうっとりと聞き惚れていたが心の中でそうつぶやいた時、そのつぶやきに合わせたかの様に、バタバタと何かが地面に倒れる音がした。その音に、がはっと我に返り周囲を見渡すと、なんと自分達を除いた廃ビルの周りにいる人間全員が昏倒している。
「だっ、大丈夫ですか!?」
は地面にしゃがみこみ、一番近くに倒れていた男性の肩を掴んで揺さぶった。しかし、男性は目を閉じたまま、彼女の呼びかけに反応しない。
「命に別状はないみたいだけど、深い昏睡状態になってるようだね」
倒れている別の被害者の脈を取りながら、蔵馬が言った。
「そんな‥‥どういうこと?まさか今の歌声で?!」
が顔色を変える。
「・・・おいでなすったようだよ」
彼女とは対照的に、落ち着き払っていた幻海が廃ビルの屋上を見上げ、軽くあごをしゃくった。
その先には、容姿までは良く分からないものの、明らかに女性と判断できる人影が一つ。
「うふふ。いらっしゃると思ってた」
発せられた声は、ささやくような甘いそれだったのに、3人の耳にははっきりとその声が届いていた。
思った通りとでも言いたげな声を発した女は、ふわりと天女が舞うように今いるビルの屋上から飛び降り、重力をまるで感じさせない軽い動作で音も無く地面に着地する。

達の前に姿を表した『天女』の正体は、しっとりと濡れたような色味の黒さと波打つゆるいウェーブを併せ持った豊かな髪に、黒目がちの艶っぽく潤んだ瞳と花のつぼみのような、と言う形容がぴったりのふっくらした唇を持つ、『妖艶』と言う言葉を絵に描いて表したような紛う事無い美女だった。
美女はあだっぽい笑みを浮かべて、囁くように再びこう言った。
「いらっしゃると思ってた」
新たな敵の出現に、3人の気が張りつめ、一気に『通常モード』から『バトルモード』のそれへと切り替わり、臨戦態勢に移行する。
だが、その様子とは裏腹に、大粒の真珠を幾連も連ねた豪奢な首飾りと耳飾りに加え、貝殻の形を模し、中央に見事な拳大の真珠を飾った髪飾りと言った装身具でその身と豊かな髪を飾り、薄紫と桃色の紗のような生地の布を何枚も重ね、差し色に淡い緑が使われた衣を身に纏った姿で現れた『天女』の様子は、ぴりぴりと気を張り詰める3人とはうって変わって殺気一つ漂わせないのんびりとしたものだ。
しかも彼女の纏っている衣は、直接的な戦闘には不向きなひらひらした仕立ての上、胸と脚の部分が大きく開いたデザインで、グラマラスな身体の線を隠すどころか強調する結果になっており、見ている方が目のやり場に困るほど。
傾く夕日に照らされた彼女は、そのライティング効果も手伝ってか、よりいっそう美しく、妖艶と言う言葉を現実の女性として具現化した結果そのもののように見えた。

「お近づきのしるしに、私から名乗りましょうね。私の名前はアプサラス」

煮詰めた蜂蜜のような甘ったるい口調で女は自らの名を名乗った。
「・・・波旬の手下ね!」
は鋭い目つきでアプサラスと名乗った女を睨みつけた。
「手下なんてお上品じゃない言い方好きじゃないわぁ。せめて、部下っておっしゃい」
の剣幕をからかうかのように大袈裟に肩をすくめ、小首をかしげてアプサラスは言った。
「どっちでも意味は同じよ!」
吐き捨てると、は口の中で小さく呪文を唱える。耳のピアスが光ってシールドバトンが片方だけ現れると、彼女の右手に握られた。
「小さな女の子まで犠牲にして・・・許さない!」
続いて、左の手には、気脈から引き出した『水の気』を凝縮した淡い青真珠色の光球が現れる。そんなの様子を見たアプサラスは細く整えられた眉をひそめた。
「あ~ら、やる気?すぐに腕力に訴えるって言うのは野蛮だわぁ。いやぁだ」
「弱いものの命を無差別に奪う方がよっぽど野蛮だわ!」
負けじともアプサラスに言い返す。
「だって、仕方ないじゃない。私がこの世に生き返るには、命が必要だったのよ。どうせ生き返るなら、女なら最高に美しい姿で蘇りたいじゃない?」
ねぇ、と付け加えると、アプサラスはを頭のてっぺんから足の先まで無遠慮な視線でじろじろと眺め回すと、くすっと笑った。
「‥‥まぁ、貴女みたいな小さな女の子にはぁ、大人の女の気持ちって言うのは、まだ難しすぎるオハナシだったかしら?」
「なっ‥‥」
驕慢な笑みを浮かべ、さりげなく『小さな女の子』と言う言葉を強調しながら、再度を、特にその胸元の辺りを高慢かつねとりとした目で見つめるアプサラス。
彼女の発した言葉と、自分をねめつける視線の意味が分かって、は次の言葉を失った。
要は『私の方があんたよりも遥かに美人でセクシーないい女なのよ』『ブスな小娘は黙ってろ』と、言う事を言われたのだ。
それも、が自身の体形に対して持つ秘かなコンプレックスを痛烈に強打する方法で。
『柳の木の様にしなやか』だと良く形容されるのプロポーションは、今まで修めてきた体術の修練のおかげで、筋肉と脂肪のバランスが絶妙な上、無駄な贅肉などこれっぽっちも無いくびれたウエストにきゅっと上がったガードル知らずの引き締まったヒップとそれに続く長くてすらりとした美脚を持つ、素晴らしいものだったが、いわゆる『男好きのする身体』だと言うには、少々無理があるものであった。
勿論、彼女の体型がマラソンランナーや一部の格闘技選手に見られる様な、女性らしい曲線を極限までそぎ落とし、排除しているものだと言う訳ではなく、むしろ、『アスリート』と『スーパーモデル』の両方の長所のいいとこ取りをしたと言って良い、鍛えた筋肉のしなやかさに女性らしい柔らかさと曲線が融合した、出るところはしっかり出て、引っ込むところは引っ込んでいる、女性なら誰もがうらやむようなスペシャルバディだ。
だが、目の前の今にも衣から零れ落ちそうな豊かな胸をそなえた、ほっそりとしているのに妖艶かつ柔らかで抱き心地良さげなアプサラスの身体つきと比べると、『女性らしさ』とか『色気』とか『胸の大きさ』とか『見た目の柔らかさ』とか『世間一般の男性の好み』と言った領域では、完全には彼女に負けていた。
そして、自分の身体を本当の意味で嫌いではなかったものの、見た目の柔らかさが足りなくて、女っぽい魅力が不足している事と、美乳ではあったが、巨乳と言うには少々無理のある胸は、にとってはけっこう深刻なコンプレックスの一つだったのだ。特に蔵馬と付き合い出すようになってからは。
そのコンプレックスを無残に踏みにじられて、頬にかっと血が上る。

「人を馬鹿にしてっ!貴方の全てがかりそめの幻だって言う事、思い知らせて上げるわ!」
「あら、怒ったのぉ?わぁ怖ぁい」
そう言うと、妖艶なかの美女は、アー、と長く澄み切った歌声を発した。その瞬間、

「「「!」」」

と蔵馬、そして幻海は、驚きのあまり息を飲んだ。
突然、地面からゆらりと黒い影がいくつも立ち上がったのだ。その影の正体は先程、アプサラスの甘美な歌声によって昏倒し、意識を失った人間達であった。その瞳は焦点を結んでおらず、うつろに宙を見つめている。
「あいつらをやっつけて」
声を低め、今までよりもより一層なまめかしい声で、アプサラスは達を指差し、言った。
「特に、あの、栗色の髪をした小さな女の子を念入りに、ね。私を馬鹿にしたらどうなるかって、丁重に思い知らせてやって」
アプサラスが言葉をつむぎ終わった途端に人々は達に向かってなだれ込むように向かってきた。
「くっ・・・!」
は左の手に溜めていた『水の気』を慌てて打ち消し、右手のバトンも同じ様にピアスにしまいこむ。
操られていると言っても、向かってくる人々は『普通の人間』だ。人外の力や、打ち所が悪ければ人殺しの凶器になるような金属製のバトンを『普通の人間』相手に無造作に振るうわけには行かない。ただでさえ、霊力はもとより、『普通で無い』腕力と体力を兼ね備えた自分は、丸腰の状態でも『普通の人間』相手にはその存在自体がある意味凶器なのだから。
倒れ込むようにして自分達に向かってくる人々を、踊るようなステップでひらひらとかわし、すれ違いざまに素手で当て身を入れる。
身体的能力そのものが根本から違う上、操られている事によって、動きが単調な相手は、あっさりとに倒され、ばたばたと倒れていく。
だがしかし、これもアプサラスの歌の魔力なのだろうか、普通なら、当て身の一撃で気を失って倒れるはずの『普通の人間』な彼らは、倒れても倒れても、再び立ち上がって襲ってくる。
「まるでゾンビだね・・・」
幾度と無く当て身を貰って倒されても、そのつど起き上がって自分たちに向かってくる人々を見て、チッと軽く舌打ちし、幻海がつぶやいた。
女性陣二人の活躍と同様、蔵馬も相手を傷つけないように慎重に相手をいなし、手近にある雑草を変化させて縄状にし、動きを止めていた。
が、警察に報道関係者、それに野次馬と、いかんせん数が多い。しかも、それが、数が減る事無く次々と押し寄せるのだ。徐々にと蔵馬、それに幻海は追い詰められていった。
は‥‥ああ、思った通り大丈夫だね」
背中合わせになったに向かって蔵馬は声をかけた。
「勿論よ。この位平気」
こっくりと気丈に頷いて、は答えを返した。元々勝気そうな顔立ちの彼女だが、小さな少女と言う『普通の人間』の中でも『弱者』と言える存在が犠牲になっている事に加え、先程アプサラスにプライドを傷つけられた事も相まって、生来の勝気さに加えて憤りが前面に押し出された厳しい表情になっている。
「あたしの心配はしないのかい?まったく、ひどいもんだねぇ」
少々おどけた口調で幻海が言った。その言葉を聞いて、触れたら真っ二つになりそうな刃の気配を漂わせていたの表情が少し緩む。
「そんな、師範の事を気にかけて無いなんて‥‥」
ぴりぴりとした憤りの表情しか浮かんでいなかったの顔に、少し余裕の色とも言えるものがあらわれた。
「そうかい。だったら、年寄りの身体の事も考えておくれ」
このままじゃ埒があかないし、第一、疲れちまっていけないよ、と言葉を続けると、幻海は皮肉っぽい笑みの形に唇を上げた。
「師範のおっしゃる通り、このままでは根本的な解決は無理ですね」
「そう?根本的な解決なら簡単じゃない」
ぶっきらぼうできつい口調で主張する
。君の考えている事は分かるけど、今の状況でそれはベストな方法じゃないよ」
言外に、この包囲網を強行突破して彼らを操る張本人であるアプサラスを直接叩きに行くと宣言した彼女を、蔵馬はやんわりとたしなめた。
「‥‥分かってる。だから、実行に移してないんじゃない」
普段の戦いの時には、幽助をはじめとするヒートアップしやすい人間を、冷静に(とは言っても言葉自体は過激なものだったりするのだが)、なだめたり諌めたりと言った事や、状況の見極めや戦術の提案などと言った頭脳労働を担当して、蔵馬のサポート役的立場に立つことの多いだが、今回ばかりは『心は熱く頭はクール』な状態に徹する事は難しいようだ。それでも、自分たちの置かれた状況を理解して、まだ先走らずにいるあたり、完全に冷静さを失っているわけでも無いらしい。
「さて、こうなったら、まとめて一撃で戦闘不能にするほか無いね」
「そうですね。眠らせるか、動きを止めるか‥‥彼らが一般人な以上、眠らすのが一番いいでしょう」
幻海の示唆に蔵馬が行動プランを提示する。
「そして、そう言う事だったら、最適任者がここに一人いますよ」
そう言って、蔵馬はに向かってにっこりと笑った。
「え?私?」
突然話を振られて、きょとんとした顔の
「そう。オレも彼らを眠らせる事は出来るけど、オレ達だけ避けて回りだけなんて、そこまでピンポイントに器用な事は無理だね。君の術なら、オレの植物と違って、回りだけを眠らす事も出来るはずだ。だから、、頼んだよ」
「分かったわ。任せて」
蔵馬の言葉に、戦闘状態に移行してから険しい‥‥別の言葉で言うなら頭に血が上って余裕の無い‥‥顔をしていたの顔に、少しだが、はじめて笑顔と言えるそれが浮かんだ。返事を返すと術を紡ぐ為に、気を練りはじめる。
「ふん・・・」
3人がじわじわ追い詰められていく様子を、それまで微笑みながら余裕たっぷりと言った様子で見ていたアプサラスだったが、が気を練りはじめるのを見て、その余裕の笑みが崩れる。
「まぁ、生意気。私の『歌』を破ろうとするなんて。でも、小娘のクセに私の『歌』を打ち破るなんて、千年は早くってよ」
アプサラスはにはおそらく浮かべる事は出来ないだろう、妖艶な笑みを唇にのせると、先程よりも更に高い歌声を発した。

「うわっ!」

「‥‥。『眠りのき‥‥キャアァ!」

突然3人に向かって、操られた人間達が大量になだれ込む。
それに不意を付かれて、の紡いでいた眠りの術も、詠唱を中断させられ、発動を阻止させられてしまう。
その上、なだれ込んで来た人の波に飲み込まれて、3人はバラバラに引き離されてしまった。
各々、傀儡と化した人々の手からなんとか逃れ、体勢を立て直そうとする。

「‥‥っ!傀儡が倒せないのなら、人形遣いを倒すまでよ!」

は、回し蹴りの姿勢でフィギュアスケートのスピンか、バレエのターンのように身体を1回転させ、押し寄せるアプサラスに操られた人間たちの壁をなぎ払うと、地面を蹴って宙に舞い上がった。
狙いはアプサラス本人。先程消した『水の気』を手の中に再充填し、ポニーテールにきりりと束ねた栗色の髪をなびかせて、空中から目標めがけて突っ込んで行くその姿は、美々しい甲冑姿で戦場を疾駆する北欧神話の戦乙女(ヴァルキリー)かギリシャ神話のアルテミスを思わせる清冽さと凛々しさにあふれ、魅力のそのものの質こそ違えど、彼女がアプサラスになんら劣る事の無い魅力的な娘だと言うことを、ゆるぎない事実として示していた。

「せぁっ!」

気合一閃『水の気』を纏わせた、バックブロウ風味の掌打が電光石火でアプサラスに襲いかかる。
ところが、戦いはおろか体術の心得など、全くなさそうに見えたアプサラスは、意外にもの、おそらく渾身の力を込めて放っただろう一撃をひらりとかわしてみせた。もっとも、完全に避け切る事は流石に難しかったらしく、波打つ豊かな髪が一房、切り飛ばされて宙に舞う。

「私の髪をっ!」

自慢の一つだったろう髪を切り飛ばされて、隠しきれない怒気を帯びた声がアプサラスからあがった。

「たぁっ!」

それにはお構い無しで、続けざまには、アプサラスの懐に飛び込むべく大きく足を踏み込んで、掌打を放ったのとは反対側の肘を打ち込む。
この肘打ちもギリギリのところで直撃を避けられて、また、数本の髪を切り飛ばし、アプサラスの剥き出しの腕をわずかに掠めて、彼女の背後のビルの壁にめり込んだ。肘がめり込んだ壁はその肘の形にコンクリートの外壁が穿たれて凹みが出来、周りには蜘蛛の巣状にいくつも亀裂が入って、がアプサラス相手には、躊躇せずに本来の『普通で無い』力をふるっているのだと言うことの証明となる。

「一度だけでなく二度も‥‥。やってくれるじゃないの‥‥」

アプサラスは憎々しげに呟くと、スキャットともハミングとも取れる細く高い歌を紡ぐ。の肘が掠めた腕は、傷こそ付いていないものの、うっすらと鮮やかな赤い色に染まっていた。

「次は、当てるわよっ!!」

紡がれる歌に構わず、は壁にめり込んだ肘を取り払い、アプサラス目がけて強烈な回し蹴りを放った。
アプサラスの自慢が美声とそのフェロモン漂うグラマラスな肢体なら、の自慢は多分、誰もが認めるしなやかですらりと長い美脚。その美脚が必殺の凶器と化し、空気を切り裂きながらアプサラスへと襲いかかろうとした、その時。

「ああっ?!」

とアプサラスの間に一人の男が立ち塞がる。それは、野次馬を建物内に寄せ付けない為に呼ばれたのだろう、機動隊の制服と装備に身を固め、ジュラルミンの盾を持った警察官だった。
アプサラスを倒す為、力のリミッターを解除し『バトルモード』全開で放たれたの回し蹴りは、目標としていたアプサラスではなく、まるでアプサラスを守るかのように立ち塞がった警察官へと叩きこまれた。余りにも突然の出来事に、途中で蹴りを止める事も出来ず、は、ただ驚きの声しか発する事が出来ない。

ガキィィィィィン‥‥‥!!

どこか濁った様な金属音が辺りに響いた。ジュラルミンの盾との足がぶつかった音だ。
『普通じゃない』基準では非力な方とはいえ、コンクリートの壁を穿つ程のパワーを秘めた彼女の蹴り足は、多少の投石や金属バットの殴打一回や二回位ではびくともしない強靭さを持つ金属製の盾を凹ませ、その威力と勢いで、持った盾ごと警察官を、目視で2mほど先へと吹っ飛ばす。

「‥‥大変!どうしよう‥‥!」

顔色を変えては、自分が蹴り飛ばした警察官の元へと飛んで行く。『バトルモード』全開の必殺の気合を込めた回し蹴りを、まともに『普通の人間』が食らったのだ。幾ら相手が対暴徒鎮圧用の装備に身を固めた、日ごろから厳しい訓練を欠かさない屈強な機動隊員であり、更にはアプサラスに操られて、普通とは違う状態に置かれていたとしても、無事ですむとはとても思えない。彼女の足が文字通り『凶器』となって、命を奪ってしまった可能性もあるのだ。

「大丈夫ですか?しっかりしてください!!」

ひざまずいて顔を覗きこみ、声をかける。『バトルモード』のの回し蹴りは、生けるゾンビと化した相手ですら失神KOしてしまった様で、機動隊員は完全に白目を剥いてしまっていた。慌てて脈と、気の流れを確認する。
昏倒した男はの回し蹴りと地面に叩きつけられた両方の衝撃で、盾を持っていた腕と肋骨を数本骨折しているようだったが、機動隊の装備とおそらくは日ごろの訓練がその身を守ったのだろう、命に関わる様な怪我をしている様子は無かった。

「良かった‥‥生きてる‥‥」

安堵のため息と声を発する。怪我を治そうと、癒しの力を集め、患部へとその力を注ぎ込む。青真珠色の光が昏倒する機動隊員の身体にきらきらと降り注いだ。

「うふふ。『セイギノミカタ』も大変ねぇ。相手がどんな人間でも、助けなくっちゃいけないんですものぉ」

そんなを揶揄するような声が降ってきた。声の主は言わずもがな。

「その原因を作った張本人は貴方でしょう!!」

怒気を隠しもしない声ではアプサラスに言い返す。

「まぁ。怖いこと。でも、私だって怪我したくないんですもの。近くに丁度いい盾がいたから、ちょっと使っただけよ

「なんですって?!」

ぎっとの柳眉が逆立った。

「だって、私の珠のお肌に、これ以上傷なんかつけられないわぁん」

そう言って、アプサラスは先程のの肘が掠めた部分をわざとらしく見せ付けた。かすったその時は、鮮やかな赤い色に染まっていたその肌は、今では濃い目の桜色とでも言うべき色に薄まって落ち着いており、『傷』なんて言う言葉を使うのがおこがましいほどだ。

「貴方だって、まだまだちっちゃな子供だけど、女の肌に傷なんか付いちゃいけないって事ぐらいは、分かるでしょぉ?」

大仰な仕草で肘の掠めた所をさすり、はぁっと息を吹きかけながらアプサラスは皮肉っぽく唇を片方上げた。

「だから何?私だって、怪我するのは嫌よ。だけど、そんな事構ってられないし、気にしなくてもいいだけの力もあるわ。貴方と一緒にしないでよ!」

「へえ。強いのねぇ。私とは大違い。ほら、私ってば見ての通りのか弱い美女だから、風が吹いても倒れてしまいそうよ」

今度は豊かな黒髪をかき上げながらアプサラスはへと言葉を紡いだ。そのかき上げる仕草一つ見ても、フェロモンと色気がたっぷり詰まったあだっぽいものだ。

「せっかくだから、その強~い所を存分に見せて欲しいわぁ

そう言ったアプサラスの唇から、またスキャットともハミングとも取れる歌声が響いた。

「人を馬鹿にするのもいい加減にし‥‥っぐっっぅ‥‥!!」

アプサラスと舌戦を繰り広げていたの言葉が、急に途切れた。後頭部に、激しい衝撃を感じた為に。

「な‥‥」

振り返って何事かを問いかける声も続けて加えられた衝撃に邪魔させられる。振り返ろうとした動きのせいでバランスが崩れ、よろけた所に、止められる事の無い衝撃が後頭部や背中に何度も降り注ぐ。たまらずに両の手を地面についた。ようやく身体のバランスを確保して振り返ると、いつの間に集まったのか、自分の背後には、操られている男たちの間でも、特に大柄で屈強そうな人間が何人も立っており、その内の一人、が蹴り飛ばしたのと同じ格好をした機動隊員が、装備の特殊警棒を彼女めがけて振り下ろそうとしている姿が目に飛び込んできた。

「ちょ‥‥」

とっさに地面に付いていた両手をクロスして、防御の姿勢を取る。殆ど無意識で発動するようになった霊気のガードを纏わせたそれは、振り下ろされた特殊警棒をがっちりと防いだ。だが、衝撃やダメージ、痛みを100%防いだ訳では無かったらしく、の顔がゆがむ。

「素敵でしょぉ?特に強そうな人たちを呼んであげたの♪がんばってねぇぇん」

くすくすと楽しそうに笑いながらアプサラスは勝ち誇った目でを見下ろした。

「くっ‥‥っうぅっ‥‥!」

続けざまに振り下ろされた警棒を、地面に転がる事でよける。転がったの背中を、別の男がサッカーボールの様に蹴った。同時にそれとはまた別の男からは、腰から太ももにかけての辺りを蹴る様に踏みつけられた。それを合図に、アプサラスによって呼び寄せられた男たちは、投げ捨てたタバコの火を踏み消すように、の身体を次々と踏みつけていく。
『バトルモード』に状態が切り替わっていても、今いる場所が人間界で、しかも回りに一般人がいる状況では、どうしても開放する霊気は押さえ目になる。
当然、防御に回すそれも遠慮会釈無く『本気』で戦っている時よりは低いし、防御力もそれに合わせたものになる。そして言うまでも無く、ガードを突き抜けた分の衝撃やダメージ、痛みと言ったものは、攻撃をしてきた相手が『普通の人間』だったとしてもしっかり感じるのだ。
モードが切り替わっているせいで、実際に感じる衝撃や痛みは見た目とは裏腹に大した事はなく、痛みもせいぜい頬や手をつねられる程度だし、ダメージもそれに比例した軽い物なので、これまで幾度と無く死線をくぐってきたに取っては、苦痛の内にも入らない、子供だましみたいなものだ。ただ、身体の痛みとは反比例する様に心が痛かった。
幽助が正式に霊界探偵に任命されて以降、は彼女が荒事で傷つくのを好まない蔵馬の気持ちを汲んで、明確な形で彼から止められた訳ではないのだが、命のやり取りが必須と言っていい事件に首を突っ込むのは止め、現場の第一線からは事実上引退している。
が、元々は『あなたの知らない世界』でも『知ってる世界』でも、どちら側に属していようとも『弱者』と呼ばれる立場の者が犠牲になるのを嫌っていたから、霊界の要請を受けて『女だてらに』血生臭い業界に身を置いていた節があった。本人は『女だてら』なんて表現を聞くと怒るだろうけれど。
だから、アプサラスの様に弱い立場の人間を踏みつけにしたり食い物にしたりしてもなんとも思わないどころか、嬉々としてそう言う事を行う人間は、が一番嫌うタイプの一つだった。
だが、不意打ちを食らい、心も痛んでいるとは言え、も『普通の人間』相手にいつまでもやられっぱなしでいる程間抜けでもなければお人好しでもない。それはそれとして現状を打破するのに何をすべきかと言う事を理解して実行できる程度には、クールだし擦れてもいる。

「‥‥っ!それっ!!」

踏みおろされる足の一つに地面に伏せた姿勢から足払いをかけて転倒させた。
転倒した男は、自分の隣にいた男も巻き込んで共倒れになる。共倒れになったことにより、波状攻撃が途切れて空白が出来た。
その隙を見逃さずに、すかさず立ち上がる。しかし、彼女のクールな態度が続いたのもそこまでだった。

「そうよねえ。『普通の人間』にやられっぱなしってワケには、行かないわよねぇ」

「黙りなさい!永遠にその口塞いでやってもいいのよ!」

演技や挑発の為に、感情的な態度を誰が見ても分かる形で表すことはあっても、本来、幽助たち5人の中では、『蔵馬の次』に『クールで冷静』な『頭脳派』のなのだが、今はその冷静さと聡明さはどこかに影を潜めてしまっていた。最優先で片付けるべき目の前の出来事に集中せずに、アプサラスの挑発に乗ってしまい、明らかに演技では無いイラついた口調で彼女と舌戦を行ってしまっている。そして、冷静さを失い、挑発に乗ったツケは即座に自分自身の身で清算する事となった。

「きゃ‥‥」

自分が足払いをかけて倒した男に、今度は逆に足元をすくわれた。回りの操られた男達の事を忘れて、アプサラスにだけ注意を取られていた為だ。
流石に転倒は免れたが、大きくバランスを崩してたたらを踏むのは避けられない。よろけた所を別の男に羽交い絞めにされた。
まずい。考えるより先に身体が動いて、振りほどく為に肘を真後ろにいる相手に向けて叩きこむ。
鳩尾か腹部を強打される痛みで相手がひるみ、腕の力が抜けた所を振りほどくのが、こういう時の対処ルーチンとセオリー。けれども、そのセオリーはいともあっさりと裏切られた。
アプサラスの歌声で『生きたゾンビ』とでも言うべき状態にさせられている男たちは普通の人間が感じるべき『痛み』を感じない。痛みを感じないのだから、を捕まえている手の力も緩まない。

「くっ‥‥」

羽交い絞めにされたに次々と男たちが襲いかかってくる。上半身の自由は制限されていても、その程度のハンディが『普通の人間』相手のの戦闘能力に大きな影響を与える訳も無く、襲いかかってくる男たちを自由になる足で次々と蹴り飛ばして、自分の傍に寄せ付けるような事はさせない。

「へぇぇ。大きな口叩くだけの事はあるのねぇ。結構、強いんじゃなぁい」

「見物に飽きたなら、いつでもいらっしゃい。その喉、蹴りつぶしてあげてよ!」

苛立ちと不快感を隠しもしない声でアプサラスの軽口に怒鳴り返すと、は掴みかかってきた男をまた一人、右の中段蹴りで蹴り飛ばした。
だが、『生きたゾンビ』達は、何度蹴り飛ばされても、気絶する事無く、幾度も立ち上がってはに襲いかかる。

「でもぉ。せっかく強いのに、全然本気で戦わないのねぇ」

あくまで『普通の人間』相手のいわば『手加減』状態でしか、男たちへの攻撃を行わないの様子に、アプサラスが口を尖らせた。

「『普通の人間』相手に本気になれる訳ないじゃない!」

苛立ちと不快感に加え、何を言っているのだと言う呆れも加わった声で返答すると、アプサラスはそれを聞いて皮肉気な笑みを浮かべて、言った。

「さっきみたいにぃ、本気になったら、こいつら、一撃でおしまいなんでしょぉ?」

「‥‥っ。本気でやったら死人が出るわ!そんなことできる訳ないでしょ!」

さっきみたいに、と言う言葉が、先程アプサラスの盾にされた機動隊員を、が『本気』の回し蹴り一撃で沈めた事をさしているのを理解して、即座に切り捨てた。

「ふぅん。じゃあ、こうすれば、本気になってくれるかしらぁん?」

そう言うと、アプサラスはくすりと笑って、男達に、甘すぎてえぐみすら感じてしまう声でこう言った。

「あのねぇ。この子ってば、今のあなたたち相手じゃ本気になれないんですってぇ。本気になってくれる様にもっともっとイロイロなおもちゃで遊んであげてぇ」

アプサラスの言葉を聞いた男たちの目が鈍く光った、様に見えた。そして。

「きゃ‥‥」

何か鈍器で殴りつけたような鈍い音と共に、アプサラスとの舌戦に比べると、幾分可愛らしげな悲鳴が上がった。
廃ビルのどこかに転がっていたのだろう、古びた鉄パイプや角材を手にして、男たちが次々とに殴りかかって来たのだ。さすがに素手の時よりもダメージが大きいのだろう、打ち据えられたの顔が痛そうにゆがんだ。
けれども、気丈な戦乙女の戦意と戦闘能力がその一撃でくじかれるわけも無く、振り下ろされる凶器だけを狙って、正確に男たちの手からそれらを蹴り飛ばす。
だが、アプサラスの言葉に、何らかの魔力でもあったのだろうか、男たちの動きはこれまでのものよりは洗練されており、が身体の自由を制限されていると言うハンディと合わせて、彼女のこれまでは鉄壁なはずだった防衛線を掻い潜って攻撃を加えはじめていた。鉄パイプや特殊警棒がのしなやかな身体の肩口や胴、腕や足に容赦なく食い込み、『普通じゃない』人間にとっても確実にダメージとなる打撃が与えられる。
そうやって、が、エスカレートした攻撃にわずかずつではあるが、『ダメージ』と言えるものをもらいだしてしばし、とうとう、誰が見ても明白な形で、その事実が現れた。

「か…は‥‥」

肺腑の底から搾り出した苦痛のうめきが、気丈さには定評のあり過ぎる程ある戦乙女の唇から漏れる。
羽交い絞めにされたの腹部、ちょうど鳩尾の辺りにジュラルミンの盾が破城槌の様に突き立てられていた。
突き立てられた、と言っても刃物ではないので、衣服の損傷も、目に見える傷口も無ければ、出血も無い。が、かと言って、今までの様にダメージをもらいつつも即座に反撃できるLVのものでもなかった。
がっくりと膝が折れる。
はじめての『効果的』な打撃に勢いづいたのか、男達はかさにかかった様に、おのおの手にした『武器』を振り上げてに襲いかかった。

ドグッ‥‥!

土嚢(どのう)か丸めた布団を殴りつけたような鈍い音がする。続けて。

「‥‥っぐぅぅっ‥‥」

押し殺したうめき。鳩尾への痛打から回復しきれない状態で、鉄パイプを金属バット、を野球ボールに見立てたフルスイングの一撃が崩折れた彼女の脇腹に見舞われる。
同じ一撃が、今度は角材をバットにもう一度。次は鉄パイプで脇腹でなく正面の腹部を狙ってもう一度。
打たれながら、は、口の中で小さく呪文を唱え、自分を捕まえる背後の手に触れた。の手が触れた所から、青白い電流が彼女を捕まえる男の全身に走る。それまで馬鹿の一つおぼえの様に彼女を捕まえていた男の腕から力が抜け、へなへなとその場に崩れ落ちた。
電流を一瞬だけ流すことにより、相手の身体機能を一時的に麻痺させたのだ。

「あぁら。やっと『本気』になったのかしらぁ?」

ようやく『人外の力』を『普通の人間』に対して振るったを見て、アプサラスがしてやったりとでも言いたげに言った。その声をは無視して、先程から続けざまに与えられたダメージをこらえ、立ちあがろうと、一度は崩れた足に力をこめる。だが、それは、やはり背後から彼女に伸ばされた手によって邪魔された。

「っ痛ぁっ‥‥!」

の自慢の一つ、極上の絹糸束にたとえられる、ポニーテールにきりりと纏まった長い髪が、無骨な手に無造作に掴まれていた。
そして、掴んだ相手は握った髪の束を紐代わりに引っ張って彼女を引きずる。唐突で無体な仕打ちに思わず痛みを訴える直接的な声が漏れた。
無体で野蛮な仕打ちを行う手を振り解こうと手を伸ばした所に、またもや、鉄パイプや角材が降ってくる。髪を引っ張る手を振り解かせようと争いながら、は、雨あられと降ってくる凶器を、その不自由な体勢の許す限り蹴り飛ばし、叩き落としては、抵抗を続けた。
しかし、は、あくまでも自分からは『普通の人間』が耐え切れる範囲でしか反撃をしない。自分が顔をゆがめ、うめき声を上げるような痛打を受けても、『人外の力』を振るおうとはしなかった。鈍器で殴られ続けるのに加え、見ず知らずの男性に許可なく髪を掴まれて引きずり回されるという、若い娘としては、上から数えた方が早いだろう屈辱的な仕打ちを受けているのにもかかわらず、相手が『普通の人間』である事を忘れずに、自らの『本当の力』を封じて、じっとその仕打ちと痛みに耐えているの様子を見つめていたアプサラスは、とうとうつまらなそうに、一つ鼻を鳴らした。