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「あーあ。つまんなーい。私、飽きちゃったわぁ。退屈だから、貴方のカレシの所に行ってくるわねぇん」
そう言い残すと、アプサラスは薄い衣をひらひらと翻し、まるで天女が宙を舞うように、蔵馬に向かってジャンプしてきて、彼の前に立った。自分の目の前に舞い降りた『天女』を、蔵馬はキツイ表情でも無いが、かと言って友好的なものとも見えない、ある種『無表情』とも言える感情の読めない顔で出迎えた。
「一体何の気まぐれで『天女』が下界の人間に干渉するんですか」
発した声の調子も、平時に話す時と同じ、穏やかで落ち着いたもの。だが、洞察力に優れた人間か彼と親密な人間なら気付くだろうLVで、発せられた内容には皮肉が含まれている。その皮肉に気付いているのか、それとも意図的にその皮肉に気が付かない振りをしたのか、アプサラスはしなを作って蔵馬の傍へと寄り添った。
「ねえ」
媚びた声音で囁き、顔を蔵馬に近づける。甘く官能的な香りがふわりと蔵馬を包んだ。浮かべている笑顔は優美なくせに艶っぽい蕩けるようなもので、世の男性と言われる種類の生き物を魅了してやまない類のものだった。
「あの娘のこと、好きなんでしょ?」
ここでアプサラスは、自分を襲う人々から与えられる攻撃に耐えながら、彼らを不必要に傷つけまいと必死なの様子を色っぽい流し目でちらりと見た。
「それは、オレにどう言う答えを期待してるんですか?」
蔵馬の声の調子は先ほどと全く変わらないもの。
「好きだ。大好きだ。愛してる。大切な人。それとも‥‥」
そこまで言って、一旦言葉を切る。
「大嫌いだとでも言って欲しいですか?」
そう言って蔵馬は少し笑った。
「そぉねぇ。私としては、一番最後が嬉しいかなぁ‥‥」
小首をかしげてアプサラスは蔵馬を上目遣いに見上げた。見た目は妖艶な美女の行う可愛らしい仕草は、その容姿との奇妙なアンバランスが逆に彼女そのものを引き立てる。
「うん、確かにあの娘はかわいいわぁ。まだまだ子供だけど」
くすくすと笑ってその豊かな胸の下で腕を組み、色っぽくあごに手をやって首をかしげ、考え込むような仕草を作る。
「でもね・・・。きっと最後は悲しい恋に終わっちゃうと思うの・・・」
「それはどういう予言なんですか。あいにくオレは先見(さきみ)の力はないんで、説明して貰えるとありがたいですが」
「うふふ。それはね、今は、ナ・イ・ショ♡」
アプサラスはますます蔵馬に身体を寄せ、艶っぽい声でささやいた。
「内緒、ね。それは困ったな」
蔵馬は本当に困ってそうな顔を作る。
「あら。困っちゃうのね。困っちゃうんだぁ」
その様子にアプサラスは嬉しそうにころころと笑った。
「でもぉ。まだ教えてあげない」
「そうですか。別にいいですよ。困るとは言いましたけど、だからと言って、別にそこまで深刻に知りたいとも思いませんし」
先程の困った顔とは裏腹な、からりとした蔵馬の口調。
「あらぁん、さっきの困ったなって言うのは、もしかして嘘なのかしらぁ?」
自慢の豊かな胸を蔵馬の肘の辺りに押し付けながらアプサラスは首をかしげる。
「嘘だと誰が言いました?困るのは本当ですよ。でも、何が何でも今すぐ知りたいと思わないだけで」
「まぁ、口の上手い事。嘘なら嘘ですと正直におっしゃいな」
そう言って、蔵馬の腕を軽くつねった。
「今言った事が正直な気持ちですが、お気に召しませんか?」
「気に入らないわ」
唇を尖らせるアプサラス。
「ねぇ。私を不機嫌にさせたお詫びをして頂戴」
そう言ってアプサラスは、蔵馬の正面から彼の肩に抱きつく様に腕を回す。
「そうね。あの娘をやめて、私にするってのはどう?」
アプサラスの黒い瞳は、夜空色をした蔵馬の瞳をしっかりと捉えた。
「‥‥一つ言っておきたい事があるんですが、いいですか?」
「何かしら?」
まるで恋人同士の抱擁の様に蔵馬にしなだれかかりながら、アプサラスは答える。
「オレは美食家なんで、不味いものは口に合わないんですが」
「あら、言ってくれるじゃない。大丈夫。口に合わないなんて事、ありえなくってよ」
しなだれかかったまま、アプサラスは自分が操る屈強な男達と休む事無く争い続けているをちらりと見た。
争っている間に嵌められてしまったのだろうか、彼女の手首には手錠が光っており、その先は廃ビルの排水パイプらしいものに繋げられていて、完全に行動の自由を奪われていた。幾度となく地面に転がったおかげで埃まみれになった服。顔も汗と埃に汚れて、お世辞にも綺麗にしているとは言いがたい。見るからにみすぼらしい、まるで奴隷のような姿。汚れていない時でもそう大した事のない小娘だったが、今の様に薄汚れていると、みっともなさも倍増だ。どう考えても、女としての魅力も、格も自分の方が上。
「安心なさいな。あの娘よりもずーっと楽しい思いができてよ?」
耳元で蠱惑的に囁いてやる。ついでに無骨な男達のサンドバッグと化している惨めな小娘に向かって艶やかに笑ってやった。
案の定、生意気にも彼氏だと思っている男が今まさに奪われようとしている現場を目撃した驚愕で、大きさだけは評価してやってもいい瞳が、更に驚きで見開かれる。顔が一気に紅潮したかと思うと、血の気がさぁっとひいて青白くなる。
「‥‥くら…っぁぐぅっっ‥‥!」
名前を叫ぼうとした矢先に、鉄パイプで側頭部を強打されてそれすら止められる。本当にいい気味。
「私と一緒だと、退屈なんてしないわ。日が昇っている間も、当然、日が沈んでからも、ね」
首に腕を回し、肩口から蔵馬の顔を見上げる様に見つめながら、アプサラスは艶然と微笑んだ。
その微笑を受けて、蔵馬はゆっくりと一度瞬きすると、少し笑った。その笑顔は虫も殺さぬ好青年、と言った風情のものでひどく柔らかかった。
「大丈夫って言ってからの貴方の発言なんですが、それは本気でそう言ってるんですか?」
柔らかな笑みを崩さぬまま、穏やかで柔らかい口調で蔵馬はアプサラスに問いかけた。
「えぇ。本気よ。もしかして、私の言った事が信じられないの?」
蔵馬の肩口に顔を埋め、もはや長年の恋人然とした様子でアプサラスはころころと笑う。
「さっき言いましたよね。オレは美食家だって」
先ほどの穏やかで柔らかな口調の中に、ひとしずく、別の色が加わった。
「言ったわねぇ。だから大丈夫だって言ったのよ。疑り深いひと」
加わった別の色に気が付かないのか、アプサラスは片方の手を上げると、しなを作って蔵馬の髪に触れた。
「美食家に対して、それは、あんまりな言い草じゃありませんか?」
にっこりと、虫も殺さぬ好青年の笑顔を保ったまま、蔵馬はそう言い放つ。
自分に絡み付いて来るアプサラスの身体の向こうに、両の手を戒められて、行動の自由を奪われ、鉄パイプや警棒を持った屈強な男達の間に見え隠れしている墜ちた戦乙女の姿。
今までの光景をきっと見ていたのだろうその顔は蒼白で、おそらくはアプサラスに対しての激しい怒りか憤りの色と、捨てられた子猫のような不安と心配に満ちた色の二色がその大きな瞳に万華鏡の様にめまぐるしく現れては消えていた。
その姿を瞳の奥に焼き付けるかの様に、蔵馬は一度だけゆっくりと目をとじると、再びアプサラスへ向けて口を開いた。
「美味しいメインディッシュの後に不味いデザートを食べろと?」
にっこりと、そう。にっこりと笑って。声も、荒げる事無く穏やかな調子のままで。でも、分かる人間には分かる様に、笑顔にも声にも甘い甘い猛毒を込めて。自分にしなだれかかっている『天女』に蔵馬は言葉を紡ぐ。
とたんに、艶然と微笑んでいたアプサラスの顔が引きつった。
「な…んですって?」
「おや?意味が分かりませんか?言葉どおりの意味ですよ。不味い物には食欲をそそられないんです」
不味くても栄養があるならともかく、栄養価も低そうですし、と更に続けて、艶然と微笑む。蔵馬を見つめるアプサラスの顔に、見る見るうちに血が昇った。
「私の事を、侮辱しているの?!」
「侮辱なんてしていませんよ。ただ、君みたいなのは、昔腐るほど相手にして面白くもなんともないから飽きた、って話なだけで」
「‥‥‥‥っっ」
口調や言い回しが穏やかなだけに、込められた毒は元々の威力を更に倍増させて、アプサラスから言葉を奪う。
「‥‥‥あんな、あんな小娘の方が、私よりも上だなんて‥‥‥‥」
搾り出す様につぶやくと、蔵馬を、先ほどのとろけるような視線とは一転、憤怒に燃えた瞳で睨み付ける。
「君は、まだ分かっていないようだけど」
そう言って、蔵馬は、自分に触れていたアプサラスの片方の手を取って、ゆっくりと引き剥がした。
「と君とでは、最初っからどんな事があっても埋める事の出来ない格差があるのさ」
「そんなのありえないわ!」
怒りに震える声で叫ぶアプサラス。
「ありえるんだよ。それは、君の名前が一番良く表してる」
唇の端をいたずらっぽい笑みで持ち上げて一旦言葉を切る。
「アプサラスって言うのはヒンドゥー神話に出てくる水の精の事で、ディーヴァ神族に歌と踊りで仕える半神族の一つだ。つまり君は、女神の様に見えてもそれは、ただうわべだけで、実際の所は女神のなりそこないって事」
口汚い罵倒の言葉が殆ど見当たらないがゆえに、蔵馬の紡ぐ言葉は、表面の穏やかさが何の救いにもならないほど冷たくて鋭い。
「だったら‥‥あの小娘は何だって言うのよ!」
「そうだね。君のルーツはヒンドゥーのようだから、それに合わせると、はシヴァ神妃が一人、黒き地母神にして戦の女神でありし鬼女神族の女王、カーリーってところかな。ヒンドゥーでもトップクラスの崇拝を集める本物の女神様だ。とてもじゃないけど、たかが半神族の君が太刀打ち出来る相手じゃないだろう?」
くすくすと楽しげに笑いながら、蔵馬はアプサラスの怒りと焦りの合わさった問いに答える。
「大きく出たわねぇっ!でも、貴方ご自慢の女神様とやらは、見ての通り、私の下僕たちの玩具よっ!」
どうだと言わんばかりにアプサラスは胸を張った。
「彼女が、今自分を攻撃してくる人間を倒すのは、その気になればいつでも出来るよ。ただ、そうする理由がないだけの話だ」
噛んで含めるような口調で蔵馬はアプサラスの揶揄を切り返した。
「はカーリーってオレが言う位だから、本来の彼女は敵には容赦しないし、時にひどく残忍だ。君に対しては、女だからと言って手加減なしに遠慮会釈なく攻撃してきたから、その身をもってよぉく分かってるだろうけどね。だけど、それは『自らの意思』で自分に敵対する者に対しての話。君の操っている人間は自らの意思でオレ達の敵になってるんじゃない。むしろ犠牲者だよ。彼女にして見れば『守るべき』相手だ」
とうとうと、まるで講義でもしているかの様に蔵馬は言葉を紡ぐ。
「カーリー女神も元々は地母神。大地に豊かな実りをもたらし人々に恵みを与える、気性こそ激しいけれども慈悲深い女神だ。彼女がその残忍さを剥き出しにして、武神としての力を振るうのは、自分と自らが守る物を害する敵と、信心を忘れた不心得者にだけだよ。味方や守るべき者にはその力を振るわない。ここまで言ったらさすがに分かるだろうけれど」
そこまで一気に言葉を紡ぐと、蔵馬は言葉を切ってアプサラスをじっと見つめた。見つめられた彼女は反論の言葉すら失ったのか、それとも怒りの余り言葉を紡ぐことが出来ないのか、ただ黙って憤怒に身体を小刻みに震わせるだけだ。
「守るべき者を食い物にするような偽物が、本物の女神と比べられる訳がない。だから君をと比べる事すら、オレにとっては不本意極まりない事なんだよ」
心底落胆している、とでも言いたげに、蔵馬は一つ大きなため息を付き、肩をすくめた。
「‥‥良くもここまで私を馬鹿にしたものね!!」
ようやく復調したのだろう、アプサラスは引き剥がされた形そのままに掴まれていた手を荒々しく振り払い、数メートルも蔵馬から飛び退ると、ヒステリックに叫んだ。
「残念だけど、別に君を馬鹿にしているわけじゃない。ただ、オレにとっての『事実』を述べているだけだよ」
アプサラスの取り乱しようとは対照的な穏やかな声と口調で蔵馬は笑みを浮かべる。
「ふん、私に言い寄って来る男なんて、いくらでもいるんだから!」
今までの『天女』や『女神』然とした風情が泣くような怒りに満ちた金切り声を投げつけ、アプサラスはそれでもまだごう然と胸を張る。
「だろうね。腐った果実には良く蝿がたかるものだから」
その最後の虚勢を打ち砕くかのように、彼女の言葉を肯定しつつ、とどめとばかりに放たれた、蔵馬の言の葉が持つ、苛烈極まりない毒に、アプサラスの顔は、感情の高ぶりが激しすぎるのだろう、赤を通り越して、蒼白に変わっていた。
「‥‥‥‥っっ!あんた達!やっちゃっていいわよ!!」
『天女』と言う言葉からは程遠い激しさで、語気荒々しく吐き捨てる。怒りに震える声が長い長い旋律を紡いだ。アプサラスの歌が紡がれ終わるか終わらないかのうちに、彼女に操られていた人々の目に、異様な光が浮かび、より攻撃的になって、蔵馬たちに襲いかかった。
そして。
パァァァァァン!!
乾いた破裂音が二つ重なって辺りに響いた。と同時に、硫黄と硝煙の匂いが広がって、その場にいる者達の鼻腔を焼いた。
「くっ‥‥うぅ・‥‥」
の、苦しげなうめき声が聞こえる。
「?!」
蔵馬はの方を振り返った。
振り返った視線の先には、両の手首に嵌められた手錠でパイプに繋がれたままで、足の片方を鮮血で染め、不自然な体勢でぐったりと崩れ落ちている彼女の姿と、まだ薄く煙を上げているリボルバーが2丁。足元には、既に赤黒い血溜りが出来はじめていた。
「‥‥足一本犠牲にして逃れるなんて、往生際の悪い事!お前たち!さっさと始末しておしまい!!」
ヒステリックな声で叫ぶアプサラス。その言葉を聴いて、改めて銃口がへと向けられた。
「っ!」
流石に蔵馬の顔色が変わった。同じく、めったな事では動揺の色を見せない幻海の顔色もだ。
幾らや自分が『普通でない』身だとしても、普通の人間に何をされても死んだり傷ついたりしないと言う訳では無い。今みたいに銃で撃たれれば傷つくし、使われる銃が小口径のリボルバーでも、心臓や頭といった急所に当たると致命傷になるのは間違いないからだ。
「動かないで頂戴。動くと貴方のかわいい女神様が蜂の巣になるわよ!」
アプサラスの怒気を隠そうともしない甲高い声が飛んだ。
「‥‥っ」
その声に、の元に駆け寄ろうとした蔵馬の足が、強制的にストップさせられる。アプサラスの言葉が脅しなのか本気なのかは、今の時点では判別が付かないが、現にが撃たれて傷ついている以上、うかつには動けない。
「私よりも先に、あの女を何とかして!」
膠着状態を壊すかの様にが叫ぶ。止まっていた蔵馬の足が、じりっと一歩動いた。だが、まだ本格的に動き出す気配は無い。
「どうせこの女はどう転んでも私を殺す気よ!」
「うるさいわね。お黙り小娘!!」
アプサラスの金切り声と共に3発目の銃声が響いた。
この一連の戦闘で一番の痛みに襲われている身体を叱咤して、銃弾を避ける為に身を沈める。放たれた銃弾はの頭頂部を掠め、ヘアゴムを切り飛ばして、背後の壁にめり込んだ。
ポニーテールにきりりとまとめられていた髪が、戒めを失い、重力のままに滝のように流れ落ちる。
「ね。今見た通りよ。私、そう簡単にやられたりしないわ」
最初に撃たれたその出血もまだ止まらない中、それでもは気丈に蔵馬に笑って見せた。
「今何をどうするのがベストなのかは、貴方が一番分かってるはず。だから早く!」
蔵馬は自らが作った血溜りにいるの姿を振り払うかのように、自分の行く手を防ぐ人々を、普段はめったに見せる事のない体術を駆使して排除にかかった。幻海も自分の行く手を阻むものを次々と倒す。
は気丈にも大丈夫と言ったし、この場をいち早く収めるのは、人々の操り手であるアプサラスを倒すのがベストな選択肢なのは百も承知していたが、彼女を倒す為に払うかもしれない犠牲の方が、今は少しだけ大きすぎる。蔵馬と幻海が操られている人々を吹き飛ばす間にも、銃声が複数回響き、硝煙の香りと、新しい血の臭いがするのが蔵馬の耳と鼻に届いた。
「!」
人垣を突破して近づいた時の彼女は、最初に撃たれた傷のほかにも、腹部や胸部、頭といった急所は外していたものの、完全に避け切ることは出来ずに身を掠めて行った銃弾による新しい傷が身体のそこここに増えて、赤い色がそのしなやかな身体を彩っていた。髪の中から取り出した細い針金状の植物で、彼女を戒めている手錠の鍵を外す。
「蔵馬‥‥どうして‥‥」
私を助けたの?と続けようとしたの言葉をさえぎり、ようやく自由の身になった彼女を腕の中に抱きしめる。
「戦いは味方の犠牲を最小限にして、敵に最大限の被害を与えるのがベストなやり方なんだよ。君を見捨てるのは、そのセオリーに反する」
そう言って、蔵馬はに向かって片目をつぶって見せた。
「‥‥‥ああっ!もう!こうなったら、みんなまとめてやっちゃって頂戴!!」
ヒステリックなアプサラスの悲鳴にも似た声が響き、焦りの隠せない声で歌声が彼女の唇からこぼれ始める。
「さぁ、反撃の時間だ。方法は君に任せた。遠慮なくやってしまうといい」
「ええ」
蔵馬の言葉を受けて、はアプサラスに向かって、すっと自らの流した血でまだらに染まった片手を上げた。
「‥‥っきゃぁぁっ‥‥うぅっ‥‥」
流れていたアプサラスの歌声が唐突に止まった。
「な‥‥何を‥‥するの‥‥」
いつの間に忍び寄ったのだろうか。彼女の首を始めとする全身には赤黒い色をした『帯』がきりきりと巻きつき、呼吸は止めないまま歌声だけを阻害していた。
「‥‥この色‥‥まさか‥‥自分の血を使ってこれを‥‥」
「ええ。貴方の言う通りよ。材料が自分の身体の一部だから、普通の『生きた帯』よりも、従順で私の言う事をよく聞くの」
見た目には、の方が怪我も酷ければ、消耗の度合いも激しいのに、形勢は完全にその真逆だった。
「一つ教えてあげるわ。私を『たかが女』、『たかが小娘』と侮って戦う人は、後で自分の言った事を必ず後悔する事になるのよ」
ゆっくりと、噛んで含めるかのようにはアプサラスに言葉を紡ぐ。
「さっき言ったでしょう。その喉を蹴り潰してあげるって。残念ながら、足をやっちゃったからそれは出来ないけど、代わりに『生きた帯(これ)』が貴方の喉もろとも首の骨を折ってくれてよ!」
の手が、握り締めた『帯』をぐっと手繰り寄せたその時。ぼうっと淡い白い光が、廃ビル周辺を包み込んだ。
そのとたん、アプサラスに操られていた人々の顔から、まるで憑き物が落ちたかのように攻撃性が消え、ばたばたと再び地面に倒れこんだ。
「この光は・・・」
アプサラスに対峙するを支えるようにその腕に抱きしめていた蔵馬がつぶやく。
「アプサラス!」
生真面目そうな、だが怒りを隠そうともしない青年の声が響いた。その声の主を探して、アプサラスも含めた蔵馬たち4人の視線が廃ビルの屋上を見上げる。
そこには、先日遭遇したウェルジャが立っていた。彼の琥珀色の瞳は、怒りの色もあらわに断罪の意思を持ってアプサラスを見つめている。
「彼女を傷つけてはいけないことは、ご存知でしょう?」
怒りを抑えた口調で、ウェルジャは静かにこう告げた。
「でも・・・。だって・・・」
バツが悪そうに、ウェルジャから視線を外し、しどろもどろにアプサラスが口答えしようとする。
「言い訳は結構です!!」
ピシャリとウェルジャは遮った。
「お許し下さい。様。貴方のお怒りは分かりますが、今だけは、僕に免じて、このアプサラスを開放してやってもらえますか?」
そう言うと、ウェルジャは合掌し、深々と頭を下げた。
「勿論、ただ開放しろとは申しません。この件の後始末は僕たちが責任を持ちます。そして、様の傷が癒えるまでは、直接危害を加えるような行動は慎みましょう。この条件で納得していただけますか」
「‥‥敵の数を一人でも減らせる絶好のチャンスを、私が見過ごすとでも思うの?」
「貴様の出した条件が守られるという保障はどこにある?信じるに足る何かが具体的に示されない限り、こちらがお前たちと妥協するつもりは一切ない」
ウェルジャの提案に、厳しい口調で返答を返す二人。
「確かに、お二人の言うとおりです。僕の言う事をそのまま信用しろというのも虫のいい話でしょう。しかし、僕は、本当なら、貴方達の不意を付いて一網打尽にすることも出来ました。アプサラスに操られた人間たちを止めずに、貴方がたを襲わせるままにする事も出来ました。そのどちらもせずに、こうやって堂々と姿を現し、人間たちを解放したのは、貴方がたの言う『信じるに足る何か』や『条件を守る保障』になるのではありませんか?」
その言葉を聞いて、と蔵馬の表情が微妙に変わった。ウェルジャの今言った事を二人ともそれぞれ胸の内で吟味し、現在の状況と照らし合わせているのだろう。わずかな沈黙の後、二人の視線が交錯し、お互い小さくこくりとうなずいた。
相手を切り裂き、凍らせて粉々に打ち砕くような冷たいオーラを隠そうともせずに蔵馬がウェルジャに口を開く。
「‥‥いいだろう。お前の言う条件で、こちらも手を引く。。君が捕まえたそれを開放してやってくれ」
蔵馬の言葉を受けて、が無言のままこくりとうなずくと、アプラサスの全身を戒めていた『帯』を軽く引っ張る。その名の通り、自分の意思を持った『生きた』帯は、(主人)の意を汲んで、彼女の手元に戻り、アプサラスを自由の身に開放した。
「まったくあなたは、自分の気の赴くままに動きすぎる!」
から解放されたアプサラスにウェルジャは開口一番そう告げた。
「‥‥悪かったわよ!」
ふてくされた口調でそう言うと、アプサラスはとんっと地面を蹴って軽やかに宙へ飛び、ウェルジャの横に並んだ。
「一つ忠告しておく。もし、条件を破った時には、お前たち全てが生まれた事を自身で呪うことになるだろう。忘れずに覚えておくんだな」
畳み掛けるように、蔵馬の氷の刃を思わせる声が飛んだ。
「ええ。覚えておきましょう。そして、僕は自分から言い出した約束は破りませんよ。それは覚えておいて下さいね」
わずかに微笑んでウェルジャは蔵馬の刃を受け止める。続いて、出血だけは止まりつつあるものの、蔵馬の支えがなければ、自分の足で立つ事もおぼつかなくなりはじめたを、心底申し訳なさそうに見つめて、口を開いた。
「本当に、申し訳ありませんでした。お許しください、様」
謝罪の言葉と共に、再び合掌し、深々と頭を下げる。次の瞬間、アプサラスとウェルジャの姿は、淡い白光の中へと消えていった。
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