ルージュ


それはクリスマス間近な12月のある日の朝の事。洗面台の鏡とにらめっこをしていた蔵馬は、鏡に映った自分の姿をまじまじと見ると、形のいい唇をひとなでして、リビングに向かった。向かったリビングでは、が、自分で持参したメイク用の携帯ミラーをテーブルの上に出して、朝のメイク中。アイシャドウやルージュ、グロス、マスカラetc.と色鮮やかな化粧品とメイク道具が鏡と化粧ポーチを中心に転がる中、真剣な顔で紅筆を握り締め、ルージュをひいていた。その真剣な眼差しを鏡越しに見て、声を出さずに小さく笑うと、蔵馬はに声をかけた。
、ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
「なぁに?」
右手にルージュ、左手に紅筆、鏡に向かいっぱなしの姿勢で、は答える。いつもなら、振り向くくらいするのだろうが、メイクの時だけは、その気配すら感じさせない。
「リップクリーム、持ってたら貸してくれる?」
「へ?」
聞こえた『お願い』がよっぽど珍しい内容だったのだろう。間の抜けた声と共に、はメイクの手を止めると、くるりと後ろを振り向いた。綺麗にラインがひかれ、ビューラーとマスカラで、お人形の様になったまつげとあっさり刷いた淡い色のアイシャドウに縁取られた大きな目が真ん丸くなる。
「蔵馬、リップ、自分の持ってた、よね?どうしたの?」
ぱちぱちと数度まばたき。
「うん。そのオレのはなくなってたみたい。買い置きも切れてたから、悪いけど、の貸して貰えないかな。今朝、ちょっと唇が荒れ気味だから」
「なぁんだ。そーゆー事なら良いよ。私の貸したげる♪」
にっこり笑って、は化粧ポーチからリップクリームとコンパクトを取り出すと、ピンクの容器に入っているリップを蔵馬に手渡した。そのまま自分はコンパクトと紅筆に今度はグロスを持って、鏡の前から席を外す。
「鏡も使って良いよ。後はグロスだけだし、もう、鏡はコンパクトので十分だから」
言いながら、今度はグロス引きに没頭しだす
「じゃ、おことばに甘えて」
ケースと同じ色のリップを上下の唇にひとなで。その後鏡を覗き込む。と、次の瞬間、蔵馬の顔が微妙に固まった。
‥‥。これって、もしかして色つき?」
「え?違うよ。色がついたんなら、多分、ルージュの色かグロス。リップ上から塗った時に色が残ったんだと思うけど?」
返答しながら、ふっと顔を上げる。上げたと同時に
「蔵馬、きれい‥‥美人さんだ〜」
うっとりとした、ほのかにピンク色の声があがった。
蔵馬の形のいい唇は、塗られたリップ本来の成分による艶と僅かに残ったルージュの色らしい落ち着いた淡い色で彩られ、元々非の打ち所のない端正で美しい彼の顔を、更に華やかで艶なものにしていた。
「美人って‥‥これじゃ女の子に見えちゃうから、困るんですが」
ため息をつきつつ微妙に刺のある声。
「普段でも女の子に間違われてナンパされる事、あるんですよ。これじゃ女装してるのと同じです」
誰が見ても分かる嫌そうな声と表情。実害がある&自分が身体的にも精神的にも完璧に男性であるため、女性に間違われるのは、心底嫌らしい。感情表現をオブラートに包んだ形で行なう事の多い蔵馬が、ストレートかつ派手に自分の感情を表わす数少ないケースの一つだ。
「ビジュアル系の人だと男女関係なくメイクしてるんだから、この位、大丈夫って」
「オレは大丈夫じゃないんです」
のお気楽な言葉に、蔵馬の声に更なる刺が加わった。口元に手をやって、刷かれた色を拭き取る。
「あ〜勿体無い。折角綺麗なのに〜」
不満そうな声があがる。
「ただでさえ間違われるのに、自分から間違われるような事をするのは嫌なんです」
「でも、リップはいるんでしょ?」
「いりますけど。間違えられる危険性を上げるくらいなら、ケアを諦めた方がマシかな」
「だ〜め!」
今度はの声に刺が含まれた。
「蔵馬は綺麗なんだから、綺麗な人はきれいにしてないとだめなの!」
まだ蔵馬の手の内にあった自分のリップクリームを取り上げると、は自分の手の甲にそれを数回往復で塗りつけた。蔵馬を不機嫌にした淡い色は、その幾往復かで綺麗に消滅し、リップ本来の透明な艶が生まれる。
「はい。もう大丈夫だから、ちゃんと塗りなさい」
再び手渡されたそれを、持て余す様に手の中で弄ぶ蔵馬。微妙に心理的抵抗があるらしい。
「医者の不養生って言葉知ってる?南野センセイ?」
悪戯っぽい調子で畳み掛けられる。
「この位でそこまで深刻な言葉持ち出さなくても良いと思いますがね(苦笑)」
「私の基準ではそれでいいの。今日はそれ、蔵馬が持ってていいから、ちゃんと塗ってね」
言いながら、テーブルの上に散らかしていたメイク道具と化粧品をてきぱきとポーチへ片付ける。片付いたポーチを傍らのA4ショルダーに突っ込むと、メイク道具と同じくテーブルの上に投げ出していたマフラーと手袋を身につけ、ソファーの上にこれまた投げ出していたコートを羽織る。身支度が整うと、A4ショルダーを肩にかけた。
「じゃ、私これから学校だから。いってきます」
「学生さん、授業は昨日で終わったんでしょう?今日からは冬休み。そう言ってなかった?」
にっこり笑うに、蔵馬からのちょっと意外そうな声。
「そう。あたり。でもね、イブの日に学校でクリスマスミサがあるから。私聖歌隊だもん。練習があるんだよ。言ってなかったっけ?」
「聞いた覚えはないけど?」
その返事には一瞬目を大きく見開く。
「もしかして、言ってなかった、の?てっきり話したとばっかり思ってた。ごめんなさい」
「今日は俺も研究室休みで、病院は夜勤だから、昼間は一緒にいれると思ってたんですけど」
「ごめんね。練習が終わったら、まっすぐ帰るから。お昼は一緒に食べれると思う」
すまなさそうな顔で手を合わせる。と、同時に、リビングの一角にあった時計に目を止め、さっと顔色を変えた。
「ごめん、蔵馬。これ以上喋ってると、遅刻しちゃうから、私、行くね。いってきま〜す」
ぱたぱたと言う足音も高く、突風のようにが出て行ったリビングに、蔵馬とリップクリームがぽつんと残された。