その日もいつものように、様子を見るだけ、のつもりだった。額の目を通して、の姿を見て、無事なのが分かって、いつも通りなのが分かったら、それでもう良かった。それで。彼女がいつも通り朗らかにいる事を見ると、それで安心できて。もう、それだけで、なんだか胸のどこかが暖かかった。だけど、額の目が教えてくれたのは、いつもとは、明らかに違う、様子。
部屋に駆け込んだと思うと、ベッドに倒れこんで。布団に顔を埋めて、細かく震える肩。もしかして、泣いている?‥‥ああ、間違いない。泣いている。何で泣く?何があった?
あんなの顔を見るのは初めてだ。一体、どうすればいい?どうすれば。
直接会うのは苦手だ。怪我をしたとか、空腹だとか、何か理由をつけないと、自分からは会いに行けない。どうしたらいいのだろう。直に様子を見に行きたい。何か理由を見つけないと。理由を。
理由を。
分からない。分からないけど、でも。近くにいてやりたい、と思う。自分とは違う世界にいるあいつ。血生臭い世界しか知らない自分とは、全く違った所にいるあいつ。自分の世界に引き寄せるなんて、出来ない。だから、理由が。理由がいる。何か、何かないのだろうか。飛影はイライラと片足をせわしなく動かして、無意識の内に手の爪を噛み締める。同じ場所にいるのがなぜだか無性にうっとおしくて、立っていたビルの屋上フェンスをたん!と蹴って宙に身を踊らした。隣のビルの屋上へと飛び移る。飛び移っても、まだ落ち着かなくて、また、宙に身を踊らす。何度も何度もそれを繰り返して、ようやくたどり着いたのは、住宅地にあるマンションの屋上。身体を動かした事で、少しだけ身体の内側に溜まっていた、自分をイライラさせる何かが晴れた様な気がして、小さくため息をついた。
「どうして行ってあげないんですか?」
背後から唐突に聞こえた声に、心臓が一瞬だけ跳ね上がる。
「貴様!気配を絶って近づくなと何度言えば分かる?!」
怒鳴りつけて振り向くと、そこにいたのは、長い黒髪にすらりとした長身の絶世の美丈夫。視線に殺傷能力があるのなら、即死してそうな飛影の怒気鋭い眼光を浴びて平然とにこやかに笑っている。
「悪趣味もいい加減にしろ」
「はいはい」
お気軽な口調で帰ってくる返事は、言外に止める気はないと宣言している。
「目の前まで来てるのに、会いに行かないなんて天邪鬼ですね」
「貴様にとやかく言われるこっちゃない」
やはり言外にの所へ行けと言われて、イライラがつのる。
「随分思いつめた、泣きそうな顔をしてましたよ。今頃部屋で一人ぼっちで泣いてるでしょうね」
「蔵馬‥‥なぜ、お前がそんな事を知っている」
焦りすら含まれたイライラした声。声のトーンとセリフの内容で、無関心を装っているのに、実は力一杯の事を気にしていると言う事を暴露している事に飛影は気がついていない。
「大学の帰りがけ、駅で見かけましてね。挨拶しようと思ったんですが、顔を見て止めたんです。声をかけた瞬間、泣いちゃいそうな感じでしたし」
「お優しいお前にしては珍しい事だな」
「本当は‥‥声、かけても良かったんですけど、それやっちゃったら、約2名から何されるか分かりませんからね」
蔵馬はほんの少しだけ肩を竦めた。ちらりと飛影に意味ありげな視線を送る。
「何だその目は‥‥」
いぶかしげな飛影。
「分かってないみたいですね。でも、まあ、いいや」
楽しそうな声。
「まあ、とにかく、彼女の所には行くべきでしょうね。今、彼女に必要なのは君だよ。飛影」
「貴様にオレの行動を指図する言われはない!」
「ええ、ありませんよ。だから忠告として聞いて下さい」
「貴様の忠告なんか聞いてたまるか」
そっぽを向く。
「理由なんかなんでも良いんです。無くったって良い。彼女に会いに行くって事が重要なんですよ?恋人に会いに行くのに何の理由が要るの?」
何を言ってるんだか、と呆れた口調。
「黙って聞いていれば何言ってやがる貴様は!」
怒気を発散しまくっている声と共に銀色の閃光が宙を一薙ぎする。
「‥‥怒るとすぐ刃物に訴えかけるのは、悪いくせだね」
閃光を紙一重で避けて、にこやかにいう蔵馬。目の前には、居合抜きに愛用の剣を抜刀した飛影の姿。
「貴様がそのくだらんおしゃべりを止めないからだ」
切っ先をぴたりと蔵馬の鼻先に突きつける。だが、蔵馬は顔色一つ変えるどころか、逆に楽しそうだ。笑顔のままポケットに手を突っ込むと、携帯を取り出す。
「ごめん。電話だ」
そう告げると、突きつけられている剣の存在など無視して、会話を始める。
「もしもし‥‥うん。ああ、ごめん。心配してた?うん。実は今飛影に会っててね。うん。分かってる。ちゃんと約束通りには帰るよ。安心して。うん。それじゃ。もうちょっとだけ待ってて」
楽しげな様子。この状況を楽しんでいるのか、電話口の相手との会話を楽しんでいるのか、その両方なのかは分からないが。
「うちの女神様からでしたけど」
言葉を切って、悪戯っぽい目で飛影を見つめる。その視線にどういう反応を返していいか分からなくて、とりあえず行き場のなくなった剣を鞘に収めた。
「女神様は『声が聞きたい』ってだけで今電話してきたんです。もうすぐオレが帰ってきて、会えるって事が分かってても、『今聞きたい』ってそれだけでね」
「何が言いたい」
「だから、理由なんか意味なんかなくって良いんです。ただそうしたいからってだけで。貴方は多分彼女の事を想って色々考えて、それで動けないんだろうけど。何があっても、理由が無くても、貴方が会いに行ったら彼女は嬉しいんです」
「あいつの事を知ったような口を聞くな」
ぎっと強い視線が蔵馬を射抜く。
「知らなくっても知っててもその位の事は言えますけどね。やきもちを焼く位なら、さっさと会いに行ったらどうです?まあ‥‥確かに魅力的な女性(ひと)ですから、彼女の事をもっと知りたいって言う気はオレだって無きにしも非ずですけど」
かちゃり、と飛影が剣の鯉口を切る。
「飛影。言っときますけど、彼女には何をする気もありません。オレは身も心もうちの女神様に捧げてますから」
「狐の言う事など信用してたまるか」
言うと同時に本日2度目の居合抜き。当然蔵馬は綺麗に避けて見せた。
「信用できますよ。余所見はしないと女神様に誓ってますからね」
居合を避けた蔵馬は、ひらりと飛影の後ろに着地する。
「貴方のやきもちよりも、女神様の天罰の方が怖いですからね。うちの女神様は信者の罪を全て許してくれる程慈悲深いお方じゃないもので。粉骨砕身お仕えしないとすぐにご機嫌を損ねてしまわれますし」
「だったら、こんな所で油を売ってていいのか。とっとと女神様とやらの元に行ったらいいだろう」
イライラした声で怒鳴る。
「言われなくてもそのつもりです。ただ、貴方の事も気にかけてますからね。仲間ですし」
この位の寄り道は、女神様も許してくれるでしょうからと言ってくすくすと笑う。
「それじゃ、女神様のご機嫌を損ねる前に邪魔者は退散します♪飛影、オレの忠告、ちゃんと聞いた方が良いですよ♪」
「うるさい!とっとと消えろ!」
屋上の床を蹴って宙に舞う蔵馬の背中に怒鳴ると、飛影は、この日3度目の居合を放った。この距離とタイミングでは、完全に届かないとわかっているのだが、それでも、抜かずにはいられなかった。
「下らん事ばかり言いやがって‥‥」
蔵馬の姿が消え、感じられる妖気が遠く小さくなったのを確認して、抜き身の剣を鞘に収める。訳の分からなかったイライラする『何か』は、蔵馬にぶつけて発散したと思ったのに、それは相変わらず鉛の様に重く身体の中のどこかに沈みこんでいたのに気付いて、飛影は思い切り顔をしかめた。『さっさと会いに行ったらどうです?』『貴方が会いに行ったら彼女は嬉しいんです』『理由なんか意味なんかなくって良いんです。ただそうしたいからってだけで』さっき言われた蔵馬の言葉が、脳裏を何度もリフレインする。
「‥‥蔵馬(あいつ)のせいじゃ、ない。オレが決めたから、そうするんだ」
言い訳をしながら、飛影は足元のフェンスを蹴った。黒い小さな身体がふわりと宙に舞う。次の瞬間には、『目の前』と蔵馬がいった通り、今まで立っていたマンションの向かいのアパートのベランダの柵に着地していた。