音もなく着地したベランダの柵から、わざと着地音を響かせて、飛影はベランダに降り立った。そうしないと、この部屋の住人には自分が来た事が分からないから。この部屋の中にいる住人は、自分とは違って『普通の人間』だから。アルミサッシの窓に近づく。これも普通の人間に聞こえるように足跡を立てて。いつもなら、着地音がしたらすぐ聞こえる、窓のロックを外す音が、窓に近づいた時にようやく聞こえた事に、飛影は僅かに眉をひそめた。がらりと窓を開け、履いていた靴を脱ぎ捨てる。蔵馬や幽助に、そして、この部屋の主に口が酸っぱくなるほど何度も何度もたしなめられたおかげで、人間界では、家の中では靴を脱がねばならぬ事を、ようやく学習したのだ。遠慮のかけらもなく、部屋の中に足を踏み入れる。とたんに飛び込んできたのは、ベッドに突っ伏している若い娘の姿。その姿を改めて確認して、飛影は不機嫌そうに眉をしかめた。なにか声をかけようと思ったが、言葉が出て来ない。いつもそうだ。こいつは苦手だ。雪菜よりも、蔵馬よりも、もっと。何を喋っていいのか、分からなくなるから。
「飛影‥‥」
ベッドに突っ伏した娘から、今まで聞いた事もないような、か細い、くぐもった声。
「来て、くれたの‥‥?」
ゆっくりと起き上がる。涙の筋が幾つもついた頬。泣きはらして真っ赤になった目。乱れた髪と皺のよったスーツ。いつも知っている姿とは、あまりにかけ離れた様子に、ただでさえかける言葉がなかなか見つけきれない飛影は、余計どうしていいのか分からなくなった。
「ごめん、なさい‥‥」
困惑する飛影に、かけられる謝罪の言葉。
「ごめんなさい、こんな所見せちゃって」
の言葉は、いつもとは違って、弱々しくて頼りなげだ。いつもの明るくて、前向きで、快活なではない。
「‥‥‥どうしたんだ」
ようやく口に出来たのはぶっきらぼうな一言だけ。
「‥‥」
の顔が曇る。
「‥‥なんでも、ないの。そう。なんでもないのよ。飛影」
そう言って、無理やりに笑顔を作った。
「なんでもない奴が、そんな顔をするか」
とたんに、笑顔が苦しそうに歪む。何かを堪えるようにぎゅっとつぶられる目。つぶられると同時に、新たな涙が一筋二筋の頬を伝った。
「飛影‥‥ごめんなさい。ごめん、なさい‥‥」
片手で目元を覆って、低く嗚咽がこぼれる。細かく震える、肩。その全てが、雪のようにはかなげで、飛影を不安にさせる。
「泣くな」
困惑した口から出てくる言の葉は、とてもじゃないが、優しい慰めとはいえない。
「ごめんなさい‥‥」
嗚咽混じりに紡がれる謝る言葉は、の涙をさらに流すためだけのものになる。
「泣くな」
何を言っていいのかも分からなくて、もう一度飛影はこう言った。何をしたらいいのかも、何を言ったらいいのかも分からなかったけれど、こんな風に泣くの姿を見る事が、どうしようもなく苦痛で、胸を締め付ける物だと言う事だけは、はっきりと分かって。
「泣くな」
3度目にそう言った時、が飛影にすがりついた。立っているままの飛影のウエストの辺りに腕が回されて、鳩尾のあたりに顔が埋められる。
「ごめんなさい‥‥しばらく、このままで、いさせて‥‥」
そのまま、くぐもった声であげられる、嗚咽交じりの泣き声。すがり付いてくるの体温が伝わって、飛影はますます胸がきりきりと痛むのを感じた。その痛みが、なぜだかひどく甘い事にまだ飛影は気がついていない。ただ、その痛みを感じるのが、とても切なくて。
『理由なんか意味なんかなくって良いんです。ただそうしたいからってだけで』
うっとおしい言葉が、また脳裏にフラッシュバックした。だけど、なぜだか、今はうっとおしいとは思えなかった。その言葉と、胸の痛みの命じるままに、飛影は、すがりつくをそっと引き剥がすと、床に膝をつく。そのままぎゅっとを抱きしめた。
「‥‥ひ、えい‥‥?」
「このままで、いたいんだろう?」
驚いた様な声をあげるのにそう言って、飛影は、なれない手つきで不器用にの髪を撫でた。
「ありがとう‥‥」
ゆっくりと目を閉じ、はそっと飛影の肩に顔をうめる。その頬に新しい涙が伝う。
「」
不意に名前を呼ばれて戸惑う。
「お前がこんなに泣き虫な奴だとは、知らなかった」
照れたような、ぶっきらぼうな口調。
「‥‥ごめんなさい」
「謝らなくていい」
ぶっきらぼうで、愛想のかけらもないけれど、その声はどこか柔らかくて。
「1人で泣くのは、止めろ。オレの知らない所で、あんな顔で泣かれるのは、迷惑だ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいといった」
飛影の口調は相変わらずで、いつもと変わらないのに、暖かい。
「今度から、泣く時には、オレのいる所で泣け。いいな」
「飛影‥‥ありがとう‥‥」
また、の目から、新しい涙がこぼれる。飛影の胸の痛みは、いつのまにか消えていた。胸のうちに、氷泪石を握り締めたときのような安らぎが広がるのを感じる。代わりに残るのは、今まで感じた事のない、甘い甘い何か。それがなんなのかはまだ分からないけれど、ひどく心地よく暖かい、と飛影は思った。その甘い何かの指し示すまま、飛影はもう一度をぎゅっと抱きしめた。
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